18億円の慰謝料

実際、ふたりの不倫・略奪愛はかなり“図々しかった”ようだ。

・裕子のコンサート最前列でジュリーが指示を与えていた
・裕子のロケ先の小豆島で密会した
・沢田のCM撮影先の上海に裕子を同伴した。
そんな情報がマスコミを賑わせたが、異変はプライベートだけではなかった。

不倫騒動の渦中の1984年、年末のNHK紅白歌合戦には出場するものの、翌1985年に長年所属した渡辺プロダクションを辞める。またレコード会社もポリドールから東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)に移籍。さらに個人事務所「ココロコーポレーション」を設立し、愛人関係にあった裕子を自分の事務所に所属させたのだ。

一方、日出代夫人(伊藤エミ)はというと、ジュリーと別居したものの離婚をかたくなに拒否、マスコミにも沈黙を続けた。

しかし、1987年1月、ジュリーと日出代夫人とのあいだに離婚が突然成立し、そんな曖昧な関係にピリオドが打たれた。

ジュリーは1987年の1月7日に日出代夫人との離婚が成立。田中裕子との運命的な出会いは1982年12月に公開された映画「男はつらいよ・花も嵐も寅次郎」だった。やがてジュリーがなんとしてでも一緒になりたい相手となる。(「週刊明星」1987年1月29日号〈集英社〉より)
ジュリーは1987年の1月7日に日出代夫人との離婚が成立。田中裕子との運命的な出会いは1982年12月に公開された映画「男はつらいよ・花も嵐も寅次郎」だった。やがてジュリーがなんとしてでも一緒になりたい相手となる。(「週刊明星」1987年1月29日号〈集英社〉より

「息子の親権や養育費など日出代夫人の提示する条件をすべてのんだ末のことだったと言われています。慰謝料は18億円以上とも。それほどジュリーは田中裕子に惚れ込んでいたのでしょう。

離婚から2年半ほど経った1989年11月、ふたりは出雲大社で挙式しましたが、その後のジュリーの生き方に裕子が多大な影響を与えていったことは間違いないでしょう。インタビューなどでもジュリーは裕子を“お母ちゃん”と呼び尊敬と愛を隠していません」(前同)

だが、裕子との再婚以降もすべてが順調だったわけではない。1990年代に入るとジュリーはテレビから遠ざかるかのように、音楽番組の出演も控えるようになっていく。

1994年に5年ぶりに紅白歌合戦に出場したが、その後は出場を辞退。また、客の入りが悪いことからコンサートの本数を減らした時期もあった。

1999年にはコンサートで常に最前列に並ぶ熱狂的ファンに「できたら真ん中より後ろにいってほしい」などと説教をたれたことが話題になったほどだ。