「ゲームのウデ」関係なく遊べるRPG

ところがRPGは、地道にザコ敵との戦闘を重ね、プレイヤーキャラクターのレベルを上げていきさえすれば、誰でも「いつかは」クリア可能です。その枠組みのなかで、ゲームに慣れているプレイヤーは積極的に攻略を進め、キャラクター育成の不足を戦略的な工夫で乗り越えていくことも可能ですし、逆にじっくり進めたいプレイヤーは経験値をじっくり稼ぎ、レベルを充分に上げたうえで、育成に時間を費やした分、敵との戦闘には苦労せずにゲームを進めることもできます。

その意味で、RPGとは「様々なプレイスタイルに対応し、誰でもちょうどいい難易度になるよう自動調整の仕組みが備わったゲーム」だということもできるでしょう。

実はこの仕組みこそがRPGのもっとも画期的だった点で、コンピューターゲームを「選ばれしエリートプレイヤーのための遊び」から「誰でも楽しめるユニバーサルな遊び」に転換したのです。

ドラクエやFFが国民的ゲームになっていった要因としても、この「ユニバーサルデザイン」は必要な要素だったと思われます。

個人的な体験をふりかえってみても、僕のように自宅にファミコンを持っていなかった子供はたいてい、友だちの家でアクション/シューティングゲームを「ゲームオーバーになったら交代」というルールで代わりばんこに遊ばせてもらっていました。

これは一見すると公平で民主的な仕組みですが、実際は上手な子ほど長時間遊べることでさらに上手になっていき、もともと下手な子は一瞬でゲームオーバーになるので経験も積めずさらに遅れをとっていく……という逆累進性をはらんでいました。実際これによってゲームに苦手意識をもった子供も多く、また、当時の大人たちは子供以上に多くの人が「自分にはゲームは無理」と感じていました。もちろん世代間のギャップやゲームという新興文化への馴染みの薄さもあったでしょうが、実際に、当時のゲームはそれだけ難しかったのです。

つまりRPGの登場は、そういった、ゲームを遊ぶのに必須と思われていたテクニックを「持つ者」と「持たざる者」の間の格差を解消し、多くの人にゲームという娯楽を解放した大革命だったのです。

そして、それに付随した変化として、「RPGならば誰でもゲームをクリアし、エンディングを見ることができる」という、もうひとつの革命がありました。

初代『ドラクエ』『ファイナルファンタジー』がゲーム界にもたらした「2つの大革命」〜「誰でもエンディングを見ることができる」国産RPG大ブームの裏側_2