共鳴する表現とポエトリーの可能性

ーー岩井さんはデビュー以来、一作ごとにガラッと作風を変えてきました。ポエトリーリーディングがモチーフの今作もこれまでと違った味わいなのですが、数学を題材にしたデビュー作『永遠についての証明』との共鳴も感じたんです。

岩井 重なっていますね。数学は、普段使っている日常語では表現できないものを表現するための手段だと思うんです。そういった手段は、ある人にとっては詩であるし、また別のある人にとっては小説だったりするんですよね。

ーー登場人物たちにとっての数学や詩は、岩井さんにとっての小説でもある?

岩井 はい。その意味では、今回の作品で細かく描写した登場人物たちが詩を書き出す際の初期衝動だとか、それによって人生が変わっていく様子は、私自身の実体験にかなり近いですね。例えば、登場人物たちは詩を書いたり、それを人前で朗読したりすることに最初は恥ずかしさを感じますが、私も自分の小説を人に見せることを恥ずかしく思う時期がありました。でも今は、小説を書くことでしか表現できないものがあることを知っている。恥ずかしい気持ちがゼロだとは言いませんが(笑)、堂々と自分の小説を世に送り出すことができています。
それと、私は子供の頃から小説を書きたかったんですが、書いても書き切れないというか、物語を終わらせることができない時期が長くて。それが24、25歳の時に、初めて短編小説を一本、書き上げることができた。その時の達成感や、小説という表現手段を自分のものにできたという実感、これがあればこれから自分自身をもっともっと表現できるぞという前向きな気持ちは、今回の作品にはっきり反映されていると思います。

ーー第一話「テレパスくそくらえ」の初出は本誌2019年6月号、デビュー作の刊行からほんの数ヶ月後ですよね。デビューほやほやの喜びや初期衝動が、刻印された一編のようにも思います。

岩井 実は、これが雑誌に掲載された初めての短編だったんです。『永遠についての証明』を読んでくれた編集者から、一話読み切りの短編を、と依頼があった時はすごく嬉しかったことをよく覚えていますね。その当時、ポエトリーリーディングのことが気になっていたんです。もともと詩自体は自分にとって身近な存在というか、井坂洋子さんとか最果タヒさんとか、好きな詩人も何人かいたんですが、「詩のボクシング」や「ポエトリースラム」のようなイベントも開催されていて、プロはもちろん、アマチュアの人たちが自作の詩を朗読するというのは、これまでなかった新しい表現形式として世の中に根付いていくかもしれない。これをうまく取り入れることができたら、新しい小説の形になるのではないかという予感がありました。言ってしまえば目新しさから選んだ部分も大きかったんですが、実際に書いてみると、この題材の奥深さに気付きました。編集者に「連作化しませんか?」と言われた時は、我が意を得たり、と(笑)。

ーー第一話の主人公は、言語能力はあるのに、特定のシチュエーションで言葉を発することができなくなってしまう「場面緘黙(かんもく)症」を発症した25歳のフリーター、佐藤悠平です。〈わかってる。わかってるよ。でも、自分の言葉で話すのが怖いんだよ。/根性とか人見知りとか、そういう問題じゃない。/動けと念じるほど、舌が、唇が、喉が動かないんだ〉。濃厚な心理描写に胸打たれました。

岩井 数年前にテレビで場面緘黙症のドキュメンタリー番組を観て、喋りたい、言葉を伝えたい意思はあるのに体が反応してくれないというのは、苦しみの極致だろうなと思って。そのことがずっと頭に残っていたんです。それがある時、場面緘黙症を発症しても、書かれた文章を読むことなら難しくないケースもあるという事実を知って、そこから物語を組み立てていきました。

ーー悠平は、声に出せず心に溜(た)まっていってしまう言葉を、詩に変換することで生き延びてきました。そしてある日、アルバイトで知り合ったキュータというバンドマンに、半ば無理矢理引っ張り出されるかたちで、聴衆の前に立ちます。緊張と恐怖のなかで自作詩「テレパスくそくらえ」の朗読を終えた瞬間、〈僕は今、言葉を発することができる。朗読という形で〉と喜びを噛み締める。クライマックスに至る一連の場面、興奮しました。

岩井 ポエトリーリーディングが、場面緘黙症を発症した方にとって辛い状況を打ち破る手段になり得るかもしれない。ひょっとしたらそれは小説の中だけでしか起こらないことかもしれないんだけれども、でもその希望はしっかり書き留めておきたいと思ったんですよね。