TBS『JUNK』名物プロデューサーが「番組づくり」の極意を学んだ芸人とは? 寝ている妻への検証企画や超ヘビーリスナー「定吉さん」いじりも
TBSラジオ『JUNK』(月~金曜・深夜1:00~3:00)が20周年を迎えたのを機に、番組の統括プロデューサー・宮嵜守史(みやざき・もりふみ)さんがラジオ人生を振り返るエッセイ本『ラジオじゃないと届かない』(ポプラ社)を刊行した。番組作りの極意や、おぎやはぎ、バナナマンらパーソナリティの魅力も満載の1冊から、一部を抜粋、再編集してお届けする。
天才的な嗅覚を持っていた「雨上がり決死隊」

20周年を迎えたTBSラジオ『JUNK』の統括プロデューサー・宮嵜守史氏
深夜ラジオは受験生の友という時代はとっくに終わっているが、僕自身もラジオと出会ったきっかけは深夜ラジオ。高校生になり下宿生活を始め、親元を離れ少し寂しかったことと、下宿の自室にテレビを置けなかったことで、自室でラジオや音楽を聴いていた。なので、“深夜ラジオは新しく生まれるラジオリスナーの玄関口”などとこの業界で働き始めた当初は思っていた。
大学2年の春にTBSラジオでアルバイトを始めたのをきっかけに、さまざまな芸人さんらと番組を作ってきた。雨上がり決死隊のおふたりが大阪から上京してきた2002年に、初めて持った冠ラジオ番組が「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」。僕は、番組開始半年後、見習いディレクター的な立場で加わった。
雨上がり決死隊は吉本印天然素材で大ブレイクし、当時、フジテレビの深夜バラエティー「ワンナイ」で大人気だった。僕にとっては、今をときめく人気芸人さんと初めてのレギュラー番組。しばらく緊張しながらの収録が続いたが、番組100回を機に、番組も僕も少しずつ変わっていった。
放送100回の記念に、リスナーをスタジオに招待した。十数名のリスナーの中に超ヘビーリスナーのラジオネーム「定吉さん」がいたことから、流れで急遽「誰が本物の定吉か」という企画になった。雨上がり決死隊と作家の渡辺あつむ(現・桂三度)さんの機転だった。
参加リスナーと雨上がり決死隊の掛け合いに笑いが生まれ、最終的には“ダンロップのスニーカーを履いているから”という理由で見事、本物の定吉さんを特定し、収録は大爆笑で終わった。熟考して作るネタとは別に、その場の流れや空気を察知しておもしろいものを作っていく嗅覚。雨上がり決死隊と渡辺あつむさんは、僕にとってバラエティーの先生だった。
初回聴取率が0.1と爆死も

大きな転機が訪れたのは2004年。「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」がJUNK枠に昇格した。ところが、初回聴取率は0.1と爆死。何がいけないのか、そればかり考えていた。「伊集院光 深夜の馬鹿力」のプロデューサー兼ディレクターの池田卓生さんから「『アメトーーク』がおもしろいのは、2人がゲストを活かすうまさにあると思う」とのアドバイスをもらい、僕は雨上がり決死隊の2人に球を投げ続けた。
蛍原さんはテレビでは宮迫さんのフォロー役にまわる“じゃない方”的な立場のことが多かったが、ラジオだとお構いなしに羽を伸ばす。その羽の伸ばし方がクレイジーで楽しい。「パクチパクパク」という謎のフレーズを放送で多用していたときのこと。意味不明すぎるが、蛍原さんはなんで伝わらないの? みたいな顔をする。
ちまたの人々に通じるか確かめる企画をしようと話し合った。蛍原さんが街に出て、人々に「パクチパクパク」と挨拶する。即答で「パクチパクパク」と返事をしてくれる人(=共鳴してくれる人)はいるのか? という実験ロケ。蛍原さんと僕でDATを担ぎ、浅草や秋葉原に出かけた。テレビでMCもする雨上がり決死隊の蛍原徹が浅草寺やメイドカフェに出かけ、頭のおかしいロケをしてきたという事実、テレビの売れっ子がラジオにも全力投球している姿を示すことが大切だった。
宮迫さんの奥様の“奇跡の音源”

宮迫さんはとにかく器用だった。「二度見のコーナー」という「思わず二度見してしまったこと」を送ってもらうコーナーがあった。宮迫さんは多種多様な芸能人が出て来るネタメールを器用に雰囲気で物まねして読む。特徴を捉えるのがうまい。このコーナーひとつで毎週2000~3000通のメールが来ていて、宮迫さんは早めにスタジオに入って黙々と採用メールを選んでいた。
宮迫さんで印象的だったのは、餃子の王将から全編生中継をした回。王将さんのノリのよさで、深夜1時~3時まで貸切状態で生放送した。一時の時報明け、番組冒頭は「ジュー‼」っと餃子を焼く音から入る。宮迫さんが焼きたてを一口食べて「うまい!!」と叫ぶ。当時はまだ「飯テロ」なんていう言葉はなかったけど、明らかな「飯テロ」だし「ASMR」だ。
それまでさんざん番組でネタにしてきた宮迫さんの奥様についての検証もあった。生放送中、宮迫さんは王将を出発して自宅に向かう。王将の蛍原さんと中継を繋ぎ、リスナーから寄せられた指令を実行する。最難関は、寝ている奥様に話しかけるミッションだった。恐る恐る寝室に入り、「ただいま……」という宮迫さんに対し、「牛乳買ってきて」と即答する奥様。続けて「……パンも」と要求される。これはまさに奇跡の音源。宮迫さんはバラエティーの申し子だ。
「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」では、リスナーと時間だけでなく“秘密”も共有して一緒に番組作りをした。2時間、相方にドッキリをかけ続ける企画は、リスナーも仕掛け人になった。ラジオネーム「西野すみちゃん」という名物リスナーを東京に呼んで宮迫さんと生中継でデートしたときも、リスナーから指令をもらった。「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」は、いつもリスナーとともにあった。
ラジオ番組を作るには「世の中の人」であればいい
リスナーを主役にできて、リスナーの投げかけや提案に柔軟に対応する。それは雨上がり決死隊じゃないとできないことでもあった。売れているのにおごることなくリスナーといつも同じ目線でラジオをしていた。二人のパーソナリティとしての能力はリスナーと一緒に遊べること。そしてリスナーを主役にできることだ。この「リスナーと一緒に番組を作り上げる懐の深さ」もラジオパーソナリティにとって重要な要素の一つだ。
先日、森三中・黒沢さんのYouTubeチャンネルに出演させていただいた。当時の僕に対する印象は、“とにかくギラギラした前のめりなディレクター”だったそうだ。確かに雨上がり決死隊から「イキリー宮嵜」と呼ばれるほどイキっていた。2人に対し、球を投げ込め、球を投げ込め、と呪文のように自分に言い聞かせていた。

現在、『JUNK』で金曜日を担当しているお笑い芸人・おぎやはぎ(左)と宮嵜氏(右)
ラジオの番組制作の仕事は、人にモノを売るほかの商売と同じだ。大衆のニーズに刺さらなければ成り立たない。テレビと比べて、新聞と比べて、ネットと比べて……とか他者と優劣を比べる必要はない。ラジオにはラジオにしかできないものが多くある。ラジオだったから届いたもの、ラジオじゃなきゃ伝わらなかったもの、そういった個性と身の丈を知ることが大事だ。
だから、ラジオ番組を作るためには「世の中の人」であればいい。僕がそうであったようにいい大学を出ていなくたっていい。専門的な知識もいらない。ラジオに詳しくなくたっていい。人に届ける以上は心を込めて作ればいい。これだけで充分、ラジオは作れます。バイトあがりの僕ができるのだから。
文/宮嵜守史 写真/shutterstock
ラジオじゃないと届かない
宮嵜 守史 (原著)

2023/3/22
¥1,760
単行本(ソフトカバー) : 384ページ
978-4591174838
【内容紹介】
日常の中に無限にある「楽しみ」の中で、ラジオにしかできないことってなんだろう? TBSラジオ「JUNK」統括プロデューサーのラジオに捧げた25年が詰まった初の書き下ろしエッセイ。ラジオとの出会いから、プロデューサーになるまでのエピソード、人気パーソナリティたちの魅力まで。極楽とんぼ、おぎやはぎ、バナナマン、ハライチ、アルコ&ピース、パンサー向井慧、ヒコロヒーとの読み応え抜群のロング対談も収録。
【本文より抜粋】
世の中から見たらこぢんまりとした業界だけど、聴く人の心をしっかり掴むメディアだ。他ジャンルとの優劣を比較するのではなく、ラジオ独自の個性がどこかにある。ラジオだったからできたこと、ラジオじゃなければ伝わらなかったことが、きっとあるはずだ。
この『ラジオじゃないと届かない』では、エッセイと対談を通してラジオやパーソナリティ自身の魅力を伝えたい。僕がラジオの仕事をしてきた中で得た経験から、ラジオの良さを少しでも伝えられたらと思っています。(「ラジオってなんなんだ?」より)
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