ユダヤ人国家は本当に必要なのか…パレスチナのアラブ人の苦境とナチス占領下におけるヨーロッパのユダヤ人との共通点
ロシアのウクライナ侵攻により、中東にますます石油の依存をせざるを得ない日本にとって、「知らない」ではすまされない国、イスラエル。終わりの見えない争いの根本、その複雑な歴史を解説する。『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』#2
「ユダヤ人国家」は本当に必要か?
現代のユダヤ人は、アメリカやその他の国々で、イスラエルと同じように安全で充実した暮らしを送っているのでは?
21世紀の現在、「ユダヤ人国家」という概念は差別的で時代遅れでは?
近隣諸国との関係や現地の人口動態を考えると、この「ユダヤ人国家」を現在のイスラエルに置いたことは、世界で最も優れたアイデアではなかったのではないか?
私はこうした問いをしょっちゅう耳にするし、言わんとしていることはわかる。本当にわかる。
現代のリベラルなアメリカ人の視点からすると、イスラエルが存在する論拠は必ずしも明確ではない。歴史をきちんと知らなければなおさらだ。
しかし、イスラエルの存在が問題を抱え、複雑なものであり続けてきたとしても、イスラエルの建国が罪のない人びとに多くの不幸をもたらしてきたとしても、イスラエルがいいアイデアだったこと、少なくとも、何としてでも必要だという切実な思いから生まれたアイデアだったことは事実だ。

数年前、私は子供たちと一緒に、アムステルダムにあるアンネ・フランクの家を訪れた。
訪問後、すべてを理解しようと頑張っている娘(当時11歳)にこうたずねられた。アンネと家族はなぜ、アメリカでもカナダでもオーストラリアでも、「どこでもいいからほかのいい国」に行かなかったのか、と。
私は娘に、ヨーロッパで恐ろしいことが起こっているとはっきりわかってもなお、ヨーロッパのユダヤ人を進んで受け入れてくれる国は世界のどこにもなかったのだと説明した。
当然、娘は信じられない様子で、どうしてユダヤ人が安全に行ける国が世界に一つもないのかときいた。まさにそのときその場で、私はシオニスト意識の誕生を目の当たりにしたのだ。
というのも、ヒトラーが「最終的解決」を実行する前の数年間に、ヨーロッパのユダヤ人の多くに避難場所を提供する国が世界に一つでもあれば、言うまでもなくあなたが本書を読むこともなかっただろうからだ。
シオニストの企てが始まった理由はホロコーストではなかったとしても、その企てが成功した理由はホロコーストだったはずだ。娘の願いをかなえてくれる「いい国」が一つでもあったとすれば、移民もおらず存在理由もないイシューヴ(「ユダヤ人共同体」)は孤立した小集団のままで、いずれ縮小して消滅した可能性がきわめて高い。
だが、そうはならなかった。シオニストは正しかった。
つまり、ユダヤ人以外、誰もユダヤ人の面倒を見てくれることはなかったのだ。ヒトラーがヨーロッパのユダヤ人を根絶やしにしようとした時代に生き、それに気付いていた人が、いまでも世界中にいる。
イスラエルが存在する根拠は、大昔の歴史ではない。あなたのすぐそばで暮らし、息をしているのだ。
イスラエルは、文字どおり生きるか死ぬかの問題に対する複雑で不完全な答えだった。イスラエルが建国されたとき、ユダヤ人にとってそれ以上のものは手に入らなかった。
イスラエルは、大海で彼らが唯一つかまることのできた板であり、唯一手にしていた救命筏だったのである。
追い出された人びと
アラブ‒イスラエル紛争を形づくった人口移動には、ぞっとするような対称性が見られる。
その大半が追放と逃亡によって演出されたのだ。
19世紀から20世紀初めにかけて、東欧での迫害を逃れたユダヤ人がパレスチナにやってきた。続いて、ホロコーストやホロコースト後のヨーロッパ(そこには彼らの家も未来もなくなっていた)を逃れたユダヤ人が大挙して押し寄せた。
こうした大量の人びとの移動が、1948年から49年にかけて、パレスチナのアラブ人の大々的な追放と逃亡を引き起こした。
その後、それに劣らない人数の中東のユダヤ人が、イラク、モロッコ、チュニジア、エジプトといった母国からイスラエルに逃げてきた。イスラエルの建国によって、アラブ世界における反ユダヤ主義と敵意が高まったためだ。
これらの大規模な人口移動―いまなら多くの人が民族浄化と言うだろうが―は痛ましいものだ。
元イスラエル首相のイツハク・ラビンは自らの回想録で、ベン=グリオンからこう命令されたと述べている。
1948年、アラブ人の町であるリッダ(現在はイスラエルのロッドという町で、国際空港がある)の数万人におよぶアラブ系住民を戦闘のさなかに家から追い出し、11マイル〔約18キロメートル〕先の国境の向こうのヨルダン川西岸まで歩かせるように、と(興味深いことに、この出来事は、1995年にラビンが暗殺されて以降に出版された回想録にのみ書かれている。それ以前の版では、軍の検閲によって削除されていたのだ)。
多くの場合、アラブ人の村や町は徹底的に破壊され、その住民が逃げるか追い出されるかしたのちに、基本的に地図から消し去られた。それ以外の場合、アラブ人の村の跡地にイスラエル人の新たなコミュニティが建設されることもあった。避難したアラブ人が故郷に帰ることは許されなかった。

追放の長い歴史が、特定の場所の名前の変遷を通じて、長きにわたって受け継がれている場合もある。
歴史のある一時期が消され、別の一時期が記されている現代のパリンプセスト〔もとの字句を消した上に字句を記した古代の羊皮紙〕というわけだ。
エルサレムへ続く道を見下ろす丘の上に、キブツ・パルマッハ・ツバという美しいキブツがある。1948年に破壊されたアラブ人の村の廃墟の近くに建てられたものだ。
エルサレム‒テルアビブ間の道路を通行可能にしておくための戦いの際に、ハガナの突撃部隊(パルマッハ)が戦略的な立地にあるスバ(ヘブライ語で「ツバ」または「ツォバ」)を奪取したことにちなんで名づけられた。
丘の頂上までハイキングすると、スバの廃墟を一望できる。住民が逃げ出し、戻るのを禁じられたあと、うち捨てられたままになっている。その廃墟のふもとには、十字軍のベルモント要塞の遺跡がある。
12世紀にエルサレムへ通じる西側の道を守るために建てられたものだ。ベルモントは、聖書に出てくる古代のユダヤ人村の跡地に建てられたもので、サムエル記ではこの村が、ご推察のとおりツバ〔ツォバ〕と呼ばれている。こんな具合に地名にも長い歴史が刻まれているのである。
パレスチナのアラブ人の苦境とナチス占領下におけるヨーロッパのユダヤ人
民族浄化の犠牲になったのはパレスチナ人だけではなかった。
約1万人のユダヤ人も、ヨルダンとの国境の向こう側にはみ出した家やコミュニティからアラブ人兵士によって追い出された。
エルサレム旧市街の古くからのユダヤ人街に住んでいたさらに2000人のユダヤ人も、家を追われ国境を越えて西エルサレムに追いやられた。その後、このユダヤ人街はほぼ壊滅した。
強制追放、逃亡、破壊といった事件は国中で起こった。
こうした土地の強奪は、故郷を追われたパレスチナ人の増大と、イスラエル国内にある家に戻らせてほしいという彼らの要求が芽生える土壌となった(現在に至るまで、古い家の鍵はパレスチナ人の強力なシンボルであり続けている)。

この紛争に見られる多くの悲痛な皮肉の一つは、言うまでもなく、こうした状況が、ユダヤ人は古来の故郷への帰還を許されるべきだというシオニストの要求の鏡像になっていることだ。
これはイスラエルとパレスチナの話なので当然かもしれないが、私がここで語った事実関係の歴史でさえ、いまだに論争の的となっている。
長年、イスラエル側の公式見解は、アラブ人は無理やりに追い出されたわけではなく、ダマスカスやカイロからのラジオ放送によって、攻め込んでくるアラブ軍がユダヤ人を海に突き落としやすくするために一時的に退避するよう促され、自発的に立ち去ったというものだった。
こうした主張の別パターンとして、次のようなものもある。リッダのような場所での強制追放は、アラブ人が新生国家を存亡の危機に陥れるのを防ぐため、残念ながら必要とされる軍事行動だったというのだ。
対照的に、アラブ側の公式見解は、シオニストの軍隊が新生国家から非ユダヤ人を排除するため、アラブ人の住民に銃を突きつけて追い出したというものだった。
歴史的な証拠からは、もっと複雑な物語が浮かび上がる。
長年にわたり、シリアやエジプトのラジオ放送に関する主張はイスラエルのプロパガンダとして片づけられてきたし、実際、こうした放送があったという確たる証拠も見つかっていない。
だが、近年、新たな証拠が明らかになった。実はアラブの軍事指導者の一部が、パレスチナの地元アラブ人に一時的に家や村を離れるよう実際に指示したというのだ。とはいえ、それが、アラブ人が立ち去る決意を固めるのにどの程度影響したかはわかっていない。
さらに、当時のシオニストの政策も一枚岩ではなかった。
たとえば、アラブ人とユダヤ人が混在していたハイファという都市では、ユダヤ人の市長が怯えるアラブ人の住民に、逃げずに家に留まるよう懇願したことがある。
高級官僚でのちに首相となるゴルダ・メイアは、パレスチナのアラブ人の苦境をナチス占領下におけるヨーロッパのユダヤ人のそれになぞらえていた。
過去はけっして死なない。そもそも過去ですらない
イシューヴの指導者層と誕生したばかりのイスラエル国家が、新しく引かれた国境線の内側にいる膨大な数のアラブ人の存在を、安全保障上の潜在的脅威と見なしていたのは間違いない。
だが、アラブ人の強制移住には基本計画があったのか、それとも現地の軍司令官が決定権を与えられ、「好機」が訪れた際にそれを利用する権限を持っていたのか、そのどちらだったのかで歴史家の意見は分かれている。
強制移住がなければ、イスラエルが独立戦争後に結束した地政学的存在として現れることはなかっただろうと論じるイスラエルの歴史家もいる。
いずれにせよ、結果として大量追放が起こったことに変わりはない。何十万という人びとが土地を奪われ、現在に至るまでイスラエルとパレスチナ人は深刻な問題に悩まされているのだ。

先へ進む前に、人口移動、民族浄化、時代背景について一言触れておきたい。というのも、以上はすべてひどいことではあるものの、その背景を見ておく必要があるからだ。
1920年代から50年代初頭にかけて、人類史上最大規模の大量強制追放と人口移動が世界中で起こった。さまざまな国が、民族的、人種的、国民的に均質な集団を無理やりつくり出そうと試みた。
1920年代には何百万人ものギリシャ人とトルコ人が故郷を追われ、国境を越えて「正しい」国に行くようしいられた。
第二次世界大戦中とその直後には、ユダヤ人だけでなく、ロシア人、ポーランド人、ゲルマン民族など数千万人もの人びとが、誤った民族や国民であるという理由で、家を追われたり祖国から放り出されたりした。
スターリンの恐怖政治時代には、彼の怪物的で偏執狂的な気まぐれのせいで、数百万人のソ連国民が国内のある地域から別の地域へと強制的に移住させられた。
インド独立闘争では、何百万人ものヒンドゥー教徒が、のちにパキスタンとバングラデシュになる地域から追い出され、何百万人ものイスラム教徒が、インドからこれらの新たな隣国へ追放された。
これらの例からわかるのは、1948年のイスラエル/パレスチナで起こったことは、恐ろしくはあっても珍しくはないということだ。20世紀の初頭から中葉という悲惨な時代に、世界のいたるところでそうしたことが起こったのだ。
そして、その後数十年のあいだに、こうした事態はおおむね終息した。
こんにち、民族浄化―お察しのとおり(イスラエル/パレスチナの話題なので)、パレスチナ人に起こったことは実際には民族浄化ではないと言い張る者もいるだろうが、これは予想の範囲内だ―は人道に対する罪と見なされており、ひとたびそれが起これば、世界からごうごうたる非難を浴びる。
とはいえ、現在の基準を1940年代に当てはめるのは、不可能ではないにせよ難しい。当時のパレスチナのユダヤ人が、アウシュヴィッツからわずか5年で再び破滅の瀬戸際に立たされていると感じていたとしても、無理はないからだ。

こうしたことはすべて過去の話だとして片づけたくもなるが、それはイスラエル人とパレスチナ人の未来に思いを馳せるわれわれにとって手の届かない贅沢だ。
イスラエルとパレスチナの話になると、ウィリアム・フォークナーの言葉が頭に浮かぶ。
「過去はけっして死なない。そもそも過去ですらない」。
実際、強制移住の亡霊はけっして死んでいない。いまもイスラエルの極右の一部(権力の座に就いている者もいる)の中で元気に生きていて、イスラエルを支配するウルトラ・ナショナリストのあいだで広く受け入れられているふしもある。
そしてそれは、パレスチナの一部のイスラム過激派集団(イランやヒズボラ内部における彼らの支援者は言うまでもない)が使う表現においても健在だ。彼らは、イスラエルという「がん」を地域から取り除き、「川から海に至るまでパレスチナを解放せよ」と要求している。
亡命したパレスチナ人のその後つらい人生
ところで、新生イスラエルから逃亡した、あるいは追放された70万人のパレスチナ人はどうなったのだろうか?
大半はトランスヨルダン(まもなくヨルダンに改名)、トランスヨルダン支配下のヨルダン川西岸、レバノン、シリア、エジプト、エジプト支配下のガザ地区に渡った。
また、近隣のアラブ諸国やその先へと向かう者もいた。ユダヤ人の歴史の皮肉な再現であるパレスチナ人の離散民―現在では「一九四八年の難民」の子孫が500万人を超えている―は、まさにユダヤ人のディアスポラのように、世界各地に散らばっている。
そして、ユダヤ人と同様、亡命したパレスチナ人の経験はけっして楽なものではなかった。
入国したアラブ諸国のほとんどで、パレスチナ人は難民キャンプに収容され、70年以上を経た現在も、多くの難民がそこで惨めに暮らしている。

難民キャンプは、パレスチナ人の急激な流入に対応しつつ、政府の役人が恐れていた事態、つまり、パレスチナ人が引き起こしかねない混乱の潜在的リスクを避ける手段だった。
キャンプによってパレスチナ人の苦境という問題が解消されることはなく、それに対する民衆の怒りが収まることもなかった。たどり着いた国でパレスチナ人は歓迎されず、しばしば軽蔑され、差別され、(たいていの場合)市民権と(多くの場合)基本的な権利を認められなかった。
受入国はイスラエルとの、あるいは受入国同士の紛争において、パレスチナ難民を政治的なサッカーボールとして利用した。
何と言っても、アラブ諸国の独裁的な支配者が、シオニストの侵略とナクバという双子の亡霊を自国民に想起させることには利点があった。
シオニストの侵略もナクバも、往々にして抑圧されている民衆を怒らせ、次の紛争に向けて準備させておく手段として有効だったし、これらの独裁的支配者や生活水準の低さに対する民衆の憤怒や不満を、内側、つまり政権自体に向かわせるのではなく、外側、つまりイスラエルへ向かわせる手段としても役立ったのだ。
1948年12月、イスラエルとアラブ諸国の戦いが終わりを告げると、国連総会決議一九四号が採択された。1948年の戦争で生じた難民が、故郷に戻って隣人と平和に暮らしたいと望むなら、できるだけ早期にそれが許されるべきだとするものだ。
これが、パレスチナ人はグリーン・ラインの内側のイスラエルへ「帰還権」を有するという主張の根拠であり、和平プロセスにおいて最もやっかいな問題の一つでもある。
というのも、1948年の難民の生存者全員と、さらに重要なことだが、何百万人というその子孫が現在のイスラエル内にある故郷に帰ることが許されれば、それらの人数と、イスラエルとその占領地に住んでいるアラブ人の人口を合わせると、現在イスラエルで暮らしているユダヤ人の人口をはるかに上回ってしまうからだ。
そうなれば、イスラエルでユダヤ人が多数派である状態が終わってしまいかねない。要するに、「帰還権」はユダヤ人国家に終止符を打つ可能性があるのだ。
1949年、国連は難民とその子孫を保護すべく、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を創設した。UNRWAに登録した難民は、難民としての地位を父方の子孫へ引き継ぐことができる。
現在、UNRWAは約60カ所の難民キャンプで活動しており、これらのキャンプは、ヨルダン川西岸、ガザ地区、ヨルダン、レバノン、シリアで140万人を収容している。
文/ダニエル・ソカッチ 翻訳/鬼澤 忍 写真/shutterstock
『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版)
ダニエル・ソカッチ (著)、鬼澤 忍 (翻訳)

2023/2/25
¥2,860
400ページ
978-4-14-081933-3
「知らない」ではすまされない、世界が注視する“この国”を正しく知るための入門書
イスラエル。こんなテーマがほかにあるだろうか?
人口1000万に満たない小さな国が世界のトップニュースになるのはなぜか?
アメリカのキリスト教福音派はなぜ、イスラエルとトランプを支持するのか?
なぜ紛争は繰り返されるのか?
そもそも、いったい何が問題なのか?
世界で最も複雑で、やっかいで、古くからの紛争と思われるものを正しく理解する方法などあるのだろうか?
国際社会の一員として生きていくために、日本人が知っておくべきことが、この一冊に凝縮されている。
争いを拡大させているのは、私たちの無知、無関心かもしれない。
第1部 何が起こっているのか?
1章 ユダヤ人とイスラエル/2章 シオニストの思想/3章 ちょっと待て、ここには人がいる/4章 イギリス人がやってくる/5章 イスラエルとナクバ/6章 追い出された人びと/7章 1950年代/8章 ビッグバン/9章 激動/10章 振り落とす/11章 イスラエルはラビンを待っている/12章 賢明な希望が潰えて/13章 ブルドーザーの最後の不意打ち/14章 民主主義の後退
第2部 イスラエルについて話すのがこれほど難しいのはなぜか?
15章 地図は領土ではない/16章 イスラエルのアラブ系国民/17章 恋物語?/18章 入植地/19章 BDSについて語るときにわれわれが語ること/20章 Aで始まる例の単語/21章 Aで始まるもう一つの単語/22章 中心地の赤い雌牛/23章 希望を持つ理由
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