「勝者は学習せず、敗者は学習する」太平洋戦争の敗戦を決定づけた“日本人特有の戦い方”
「皇軍無敵」に「一撃必殺」。日本軍を敗北に至らせた四文字熟語が持つ“魔力”

失われた「兵站を重く見る良識」

日本軍“史上最悪の作戦”インパールの惨敗を招いた「恥の意識」と「各司令部の面目」_1
インパール作戦当時の日本軍
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昭和19年3月から7月にかけてのインパール作戦は、兵站無視の無謀な構想と語られてきた。しかし、ビルマ方面軍が置かれていた立場から考えると、インパール作戦には戦略的な合理性があった。戦線の最西端にあるビルマ方面軍は、東から順に雲南省の怒江正面で中国軍、ビルマ北部のフーコン(死の谷)で米中連合軍、インパール正面とベンガル湾のアキャブで英軍と対峙していた。

この態勢における連合軍は、ビルマの日本軍を包囲、挟撃できる「外線」の位置にあり、日本軍は後方連絡線を内方に保持する「内線」の位置にある。明らかに日本は不利な態勢にあるため、これを克服するには活発な機動打撃を反復して、敵が一枚岩になるのを妨害し続けなければならない。そこでまず比較的に道路状況が良好なインパール盆地まで押し出すという構想が考えられた。

そして兵站の問題だが、ビルマ方面軍や作戦実施部隊の第一五軍にその責任を押し付けるのは酷な話だ。補給幹線というものは川の流れのようになっている。内地からビルマの集積主地となるラングーン港までは大本営、ビルマ縦貫鉄道まではビルマ方面軍、鉄道から西へ150キロほどのチンドウィン川西岸の兵站主地までは第一五軍の管轄で、そこから第一線までは第一五軍隷下の三個師団がそれぞれ補給幹線を維持する。

この補給幹線でもっとも負担がかかるのは、ビルマ縦貫鉄道からチンドウィン川までだった。そこでここを担任する第一五軍は、自動車中隊一五〇個(七五〇〇両)など兵站部隊の大増強を求めた。ところがまずビルマ方面軍はこの要求を九〇個中隊、続いて南方軍は二六個中隊、さらに大本営は一八個中隊にまで削り、しかもそれがいつ現地に届くのかはっきりしていなかった。これは大変と第一五軍参謀長の小畑信良(大阪、陸士三〇期、輜重兵)は、軍司令官の牟田口廉也(佐賀、陸士二二期、歩兵)にインパール盆地への進攻作戦を断念するよう上申を重ねた。

ところが牟田口は聞く耳を持たない。中学出で輜重兵出身の小畑には、引き立ててくれる大物の先輩、親身になって支えてくれる有力な後輩がいない。困り果てた小畑は、第一五軍の隷下にあった第一八師団長で参謀本部第一部長(作戦部長)の要職にあった田中新一(北海道、陸士二五期、歩兵)に牟田口を説得してくれるよう懇願した。

しかし、田中がいくら説いても牟田口は翻意しない。あきれた田中は「参謀長が隷下の師団長に軍司令官の説得を頼むとは珍しい司令部だ」との嫌みを口にしたから、牟田口は激高して小畑を罷免することになり、陸軍省人事局もこれを認めて小畑は更迭され、関東軍情報部に飛ばされた。これで第一五軍司令部から兵站を重く見る良識が失われた(大田嘉弘『インパール作戦』ジャパン・ミリタリー・レビュー、二〇〇八年)。