異色の登山家・栗城史多氏の“高額な遠征”をバックアップしていた「資金調達の指南役」と「北海道政財界の面々」

トレーニング中に倒れた「困ったちゃん」

「撮らないで……」藤原紀香さんにヒントを得たトレーニングで倒れた栗城史多氏が、その様子をカメラに撮らせなかった理由_1
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2009年の2月と3月、私は栗城さんと頻繁に会っていた。彼がスポンサー回りや講演で留守にするとき以外は、毎日だったと思う。丸一日取材した日もあれば、営業の途中に街中で十分だけ、という日もあった。

私がBC(ベースキャンプ)まで同行することは全国放送の企画が頓挫した時点で諦めていたが、番組にしてセールスをかけなければならなかった。《もうあんな失敗は許されない》という思いもあり、私は彼の登山の進捗を逐一把握しておきたかったのだ。

「メール事件」以後、栗城さんの態度は明らかに変わった。

それまで私は、取材の突然の変更やキャンセルを彼から何度も食らっていた。最初のうちは、多忙なのだなあ、と同情すらしていたが、あまりに頻繁だ。何カ月も前からお互いのスケジュールを調整しあってセットした、Aさんとの婚約を祝う食事会まで当日の朝になってキャンセルされると、さすがに首を傾げざるをえなかった。

私はいつしか栗城さんを「困ったちゃん」と呼ぶようになっていた。もちろん面と向かってではない、自分の心の中でだ。

しかしこの時期の栗城さんは、ドタキャンがなくなった上に、私が以前から出していた撮影のリクエストに応えようとしてくれた。

栗城さんと出会って1年近く経過するのに、私たちは彼のトレーニングの様子を撮影していなかった。事務所や講演先ばかりで、同行するカメラマンも「登山家を撮ってる気がしません」と半ばキレ気味にこぼしていた。

「今度、冬山に登りますから撮ってください」

私たちは栗城さんの言葉に小躍りした。山まで行く日程は結局取れず、近場の支笏湖周辺での訓練に変更された。酪農学園大学山岳部の先輩、森下亮太郎さんが一緒だった。湖畔の林道に車を置き、スキーを履いて15分ほど登ると凍りついた滝があった。

この滝をヒマラヤの氷壁に見立てて登るという。私たちが登るには森下さんにロープで補助してもらう必要がある。全員だと時間をロスするので、カメラマンだけ上げてもらった。

5時間ほどの訓練が終わると、栗城さんが真っ先に下りてきた。
「絶対いい画が撮れたはずですよ」と、ニッコリした。