メディアが<勇気と感動のドラマ>を流し続けることの罪
この大会以降、オリンピックは回を重ねるごとに商業主義への傾斜をますます深めていった。様々な利権を狙った汚職の摘発は後を絶たず、近年ではスポーツの爽やかなイメージを利用して政治的に都合の悪いことを隠蔽しようとするスポーツウォッシングに対する批判も増えてはいるが、それでもオリンピックは世界最大のスポーツイベントとしての地位は揺るがず、肥大化の一途をたどっている。
たとえば昨年の東京オリンピックは、開催前から賛否が大きく分かれて様々な議論を呼んだ。しかし、いったん大会が始まってしまえば、新聞やテレビはスポーツ欄とスポーツコーナーを全面的に使って、〈勇気〉と〈感動〉と〈人々に寄り添う〉ドラマばかりを来る日も来る日も量産し続けた。
このように、スポーツメディアが社会事象の批判的チェックや検証という機能を放棄しているようにしか見えなかった一方で、その役割を果たしていたのは、ゲリラ的な存在感を発揮した週刊誌やそのオンラインニュースなどだ。
競技結果を広報装置のようにただ報告し続ける日本のスポーツメディアは、果たしてジャーナリズムと名乗るに足る能力を持ち得ているのだろうか。
「それはスポーツのみならず言えることであって、政治や経済においても(日本のジャーナリズムは)非常に不完全なものだと思います。どの国の報道にも程度の差こそあれ、問題はあります。しかし報道の自由度ランキング(2022年)で、日本は世界71位。まぁロシアや中国よりは上ですが(笑)」
と、二宮氏は厳しい視線を向ける。
「『国家の価値は結局、それを構成する個人個人のそれである』と語ったのは、英国の哲学者J・S・ミルですが、メディアに対してもリテラシーという点では国民がそこをチェックするわけだから、今の日本メディアの状況はやはり国民を反映した姿なのでしょう。
具体的に東京オリンピックとスポーツメディアについて言えば、当初、東京開催が決定したときから東京都民や国民の支持はあまり高くありませんでした。だから、官民一体となって、政・官・業・メディアが複合体として盛り上げなければいけない、という動きが出てきたのかもしれません。
その流れの中で、新聞社がオリンピックのスポンサーになりましたよね(註:読売新聞グループ本社・朝日新聞社・毎日新聞社・日本経済新聞社がオフィシャルパートナー、産業経済新聞社、北海道新聞社がオフィシャルサポーターとして契約した)。そこに関してはやはり、踏みとどまるべきだったと思います。監視機能を鈍らせる恐れがありますから」
イベントの利害関係者となった新聞やテレビがスポーツ欄やスポーツコーナーで、〈勇気と感動のドラマ〉を流し続けることは、スポーツと社会、スポーツと国民の関係を毀損することにもなる、とも二宮氏は指摘する。
「東京オリンピックで、日本の選手たちは金27、メダル獲得総数58と史上最多になりました。では、これらのメダル獲得は果たして国民に還元されているのか。そこが非常に重要で、選手のトレーニングや強化には、いくらかの税金が使われているのだから『感動をありがとう』で終わっちゃダメなんですよ。
一例を挙げれば、金メダルを獲るためのトレーニングやチームビルディング等のノウハウが民間企業や民間の組織づくりに役だちましたとか、あるいはこういうトレーニングが少子高齢化社会の大きな課題である健康寿命と平均寿命の差を縮めてQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)向上に役立ちましたとか、金メダリストのトレーニング方法や食生活等が我々の社会と生活に還元されましたよ、と可視化されていない。
そこが可視化されるようになれば、オリンピックに対する否定的な意見が少しは減ったかもしれません。
つまり、勇気をありがとう、感動をありがとう、だけで終わるとその先がなにもないから思考停止に陥ってしまう。確かにスポーツには、『ガンバるぞ!』と思わせる〈精神浮揚効果〉があるのは間違いないんです。
しかし、それだけでは漠然としていて、勇気や感動という言葉から先へ進んでいかない。だからといってすべてを細かく数値化しろ、ということではないんですよ。ただ、良い結果を出すためのノウハウや組織作りなどをもっと国民に還元する努力をしなければいけない。その仕組み作りがないから、国民とアスリートの間の乖離が大きくなっているのかもしれません」