小川洋子さんの最新短編集 『掌に眠る舞台』が刊行される。この作品集には演じる、 観る、観られるーー特別な関係が生まれる「舞台」にまつわる8編の物語が収められている。小川さんが足しげく劇場に通うことになったのはある歌声に魅せられたから。その声の主であるミュージカル俳優・福井晶一さんとの念願の対談が実現した。
構成/すばる編集部 撮影/中野義樹 (2022・6・27 東京にて)
役そのものになりきること
小川 福井さんがご出演されている舞台「てなもんや三文オペラ」(6月8日〜8月7日上演)を拝見しました。
福井 ありがとうございます。
小川 作・演出は鄭義信さんですよね。鄭さんは私の小説『密やかな結晶』を2018年に戯曲化して演出されたんです。主演は石原さとみさんでした。鄭さんの演出は初めてですか。
福井 はい、初めてです。
小川 初めての演出家の方と組まれるときは、特別な緊張がおありになりますか。
福井 稽古に入る前にお会いしてお話しさせていただいていたので、少しほぐれてはいたんですけれど、実際どんな演出されるのか分かるまで緊張はありました。
小川 演出の方によって稽古場の雰囲気は違うものなのでしょうか。
福井 全然違います。 鄭さんの現場はとても楽しくて。
小川 お芝居も楽しい雰囲気が出ていました。
福井 鄭さん自身、笑いがお好きなので楽しい稽古場ですし本番です。 鄭さんの作品に数多く出られている共演者も多く、稽古も和気あいあいと進んでいきました。ただ、ミュージカル界からは僕だけでしたので……。
小川 そうですね。 福井さんが、本番で歌を一節歌えば観客全員その特別さが分かるお声です。
福井 ウエンツ瑛士君は知っていましたが、ほかの方々は初めてだったので、その緊張もありました。
小川 主演はジャニーズの生田斗真さん、小劇場出身の方もいらして多様なメンバーですね。
福井 みなさん個性的です。パルコ劇場に立ったのも初めてだったのですが、観やすいとおっしゃるお客様が多かったです。小川さんは『掌に眠る舞台』の「ダブルフォルトの予言」の中で帝国劇場を出していらっしゃいますが、どこの劇場が一番お好みですか。
小川 一番多く観ている「レ・ミゼラブル」で感動したのは、大阪のフェスティバルホールでジャン・バルジャンを演じられた福井さんです。素人の私が聴いても、音が全然違うのが分かりました。
福井 歌っていてもフェスティバルホールは帝劇とは全く違います。
小川 それと日生劇場は劇場の係の方が優しいですね。
福井 その評判もよく耳にします。 日生劇場はホスピタリティがいいと。
小川 拝見したばかりの「てなもんや三文オペラ」での福井さんのお話をさせてください。 この作品のあらすじを簡単に説明すると、ベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」を 1956年の朝鮮特需に沸く大阪に舞台を移し、屑鉄盗賊団アパッチ族の親分・マックを中心にした人間模様が描かれています。 福井さんが演じられたのはマックのかつての恋人ジェニーという女性です。 体は男性で心は女性というわけではなく、原作の設定同様、女性の役を男性である福井さんがやっておられる。
福井 そうです。僕も何度も確認したのですが、性別は女性だということです。
小川 男性が考える女性的なしぐさとか、わざとらしく女性に見せようとするようなしゃべり方とか、そういうふうにはなさってない気がしました。
福井 そうですね。稽古に入る前に、たとえばダイエットをして体を細くしたほうがいいのか、台詞は高いキーでしゃべったほうがいいのかとか、どこまで昭和30年代を生きた女性に近づけるのか鄭さんと話をさせていただいたのですが、普通でいいと言われました。衣装がドレスで脚を見せるので、毛を剃るようなことはあるかもしれないけれど、そのままの福井さんでいい、特別何かつくる必要はないですと言われて、ますます混乱したんです。
小川 太ももがちらちら見えるスリットの入ったドレスで、そのたびにどきどきしてしまいます。 別の衣装ですが、 ジェニーの被るベールに付いているガラスの飾りがキラキラと光ってきれいですね。あれはジェニーが心の中で流している涙に見えて胸に迫ります。
福井 ベールは喪服のときなのですが、細かな工夫で素敵な衣装を作っていただきました。
小川 ありのままの福井さんが演じられたことが効いていました。ジェニーにしか見えない。 福井さんが女の人を演じているという性別のこだわりがいつの間にか気にならなくなって、ジェニーがそこにいることしか目に入ってこなくなりました。
福井 よかったです。僕自身は自分がどう映っているのか分からないのですが、鄭さんがジャッジし導いてくれたんでしょうね。あまり女性的につくり過ぎないほうが自然に映るのは狙いどおりでしょう。
小川 つくられた女性じゃなくて、 ジェニー以外の何者でもない存在になっておられました。声や歌のキーも変えてはおられないんですね。
福井 女性的な言葉遣いを少ししているだけで、あえて高くしゃべるとか、そういうことは意識していないですね。 オファーをいただいたとき、どの役なのか聞いていなかったんです。まさかジェニーだとは思ってもみませんでした。鄭さんに「福井さんには娼婦ジェニーの歌を歌っていただきたい」と言われて、心底びっくりしました。
小川 ジェニーは歌が重要なポイントですからね。
福井 そうですね。
小川 すばらしいですね。うろ覚えなのですが、「愛と無縁の人のほうが幸せ」というような歌詞が出てくる福井さんのソロ曲がありますよね。
福井 2幕の「ソロモンソング」です。
小川 あの歌によって、登場人物たちの中で、ジェニーが最も複雑な屈折を抱えている人なんだなということが伝わります。
福井 鄭さんが伝えたいものが最後のマックの独白と「ソロモンソング」に詰まっているんじゃないかと思います。 音楽監督の久米大作さんも「この曲は沁みる」と歌稽古のときにおっしゃっていて、僕もそう思いました。作品のキーになる曲を歌わせていただくことが、僕がこの作品に呼ばれた役目だと思って大切に歌わせていただいています。
小川 あの曲を福井さんの声で聴けるのは本当に幸せでした。冒頭でマックと結婚式を挙げるポールともう一人の妻であるルーシーが、真っすぐにマックを思っているのに比べると、ジェニーはとてもかわいそうな立場です。
福井 演じていても苦しいです。
小川 作中では描かれない過去の、おそらく荒れていた時代のマックを支えていたのがジェニーですよね。
福井 ジェニーはマックに一番理解があり、苦悩を知っていた人物じゃないかなと想像して、ラストのマックの独白を聞いています。
小川 あのシーンでジェニーはマックが収監された檻の鉄の柵のところにしがみつくようにしています。舞台上にいる人の中で一番苦しい表情をしているのがジェニーです。
福井 実は初日はあの位置にはいませんでした。
小川 そうなんですか。
福井 上演を重ねて、独白が始まる前に檻のところに移動し、終わるときにはセンターにジェニーが立っている演出に変わったんです。
小川 幕が上がった後でも、演出が変わることはあるんですか。
福井 あります。鄭さんの現場は、前日の公演で鄭さんが取ったノートをもとに開演前に毎日1時間くらい稽古をしてから、その日の本番が始まります。たいていの現場は開演2時間前、早くても2時間半前に楽屋入りするのですが、今回は3時間前に入って、鄭さんのアイデアをうかがって、そのたびに台詞や動きを変えて、時間がある限り舞台で当たってから本番。だから、初日と千秋楽では全く違うものになるでしょうね。今までそういう演出家は知らなかったので、正直最初は戸惑いました。ご自分で「アジアで2番目にしつこい演出家」だと仰っていましたが、本当でした。
小川 鄭さんは毎日舞台をご覧になって、何かぱっとひらめいたり、気になるところが出てくると、まあ、いいかと済ませられないんですね。
福井 それってすごいことだと思うんです。最後の最後まで全部見届けて、ご自分で修正を加えるのは、演劇への愛ですから。
小川 作品を高めていこうという姿勢は演出家も俳優も一緒ですものね。
福井 作・演出という立場だからこそできることでもあると思います。
小川 なるほど。
福井 それはお客さんに対しても誠実だし、出演している僕たちにもありがたいことです。カンパニー一丸となってよりいいものを届ける方向に向かっている。
小川 初日と千秋楽で見比べると、その差が分かるお客さんもいるかもしれないですね。
福井 演出が全く違ったり、台詞も変わっていたりしますよ、きっと。
小川 カーテンコールで出てきた生田斗真さんが、大千秋楽かというぐらいすべてを出し切った表情をされていました。とてもエネルギッシュな舞台ですね。
福井 生田さんはすごい集中力で臨まれてます。とくに最後のシーンは、しつこく、しつこく稽古されていて、見ているほうがもういいんじゃないかなと思うぐらいで(笑)。一つ一つ細かく、鄭さんの理想に近づけていくやり取りが毎日あります。