戦争に突き進む時代を彩る
興行界の光と影
『壺中の回廊』(二〇一三年)、『芙蓉の干城』(一八年・翌年、渡辺淳一文学賞受賞)に続く、歌舞伎ミステリーの第三弾『愚者の階梯』が九月五日に刊行されます。三部作の堂々完結です。役者の階梯(階段)、会社の階梯、国の階梯が響き合う中で、人々の思惑が交錯する物語の幕が開きます。表では光を放つ興行界にさす影と、戦争に突き進む昭和初期という時代について、伝統芸能を書かせたら当代一の著者にうかがいました。
聞き手・構成=内藤麻里子/撮影=露木聡子
「恐竜」から「コモドドラゴン」へ
―― 『愚者の階梯』の舞台は昭和十年(一九三五年)です。五代目荻野宇源次の成長が楽しみな歌舞伎界ですが、一方ではキネマ(映画)が上り調子です。歌舞伎の殿堂、木挽座を運営する亀鶴興行も、早くから映画界に進出しています。まずは、この頃のキネマの状況をお教えください。作中では大河内伝次郎、嵐寛寿郎ら、銀幕の「スタア」と呼ばれた人々の名前が出てきます。
トーキー(発声映画)がようやく根づいて、隆盛になっています。その象徴として最初にお金の話を書きました。(師匠に破門され、歌舞伎界から飛び出した登場人物の一人)荻野寛右衛門が、新聞の長者番付を見て、大河内伝次郎に四十万円もの資産があると知って仰天するエピソードがあります。長者番付は当時の新聞に本当に載っているんです。映画俳優の資産がすごいことになっているなんて記事が出るほどなので、映画界が経済的に非常に潤っていた時代だと思うんです。それを背景に現代劇にも、時代劇にも、一斉に銀幕のスターが出てきました。
――一方で歌舞伎が娯楽の王様ではなくなっていくんですね。
(三部作を通して、歌舞伎界の女帝として君臨する)六代目荻野沢之丞は代々木に三千坪の邸宅を構えています。この人のモデルになった五代目中村歌右衛門は、実際にそういう大邸宅に住んでいたそうです。かつては歌舞伎役者でトップになれば、それくらいの稼ぎがあったけれど、娯楽の王座から陥落していくと、そんな人はもう生まれません。
江戸時代の歌舞伎は“恐竜”だと思うんです。その頃はスターとして興行的価値のある人も何もかも歌舞伎が牛耳っていた。現在ですと例えばスポーツも娯楽の一つで、野球なら大谷翔平というスターもいる。現代の歌舞伎は“コモドドラゴン”。トカゲのでかいのみたいなもので、恐竜の時代とはスケールが違うんだと、私はよく言うんですけどね。
―― 本作は江戸の狂言作者、桜木治助の末裔にして大学講師、劇評も手掛ける桜木治郎が水先案内人となるシリーズです。治郎の妻の従妹、大室澪子は、この三作目で、なんと寛右衛門と駆け落ち同然に所帯を持ったばかりか、映画に出演することになりますね。
澪子は前二作で左の思想にも、右の思想にも触れています。治郎の視点からは「女は気楽でいいや」などと見られていたんですが、第三作ともなれば彼女も勝手に成長しているわけで、最後には治郎から認められるような書き方をしたつもりです。ちなみに、映画で澪子が相手役を務める大スター、宇津木典英にはモデルがいまして、鈴木傳明という俳優です。とてもバタ臭い顔をしていました。彼だけでなく、当時は(ルドルフ・)ヴァレンチノばりの俳優がたくさんいたんですよ。
浮かび上がらせた興行、経営面
―― そんな中で、木挽座で亀鶴興行の専務取締役、川端繁之の死体が発見されます。シリーズ前二作では、まず殺されるのは役者でした。今回は経営陣ですね。
芝居というのは表の役者だけで成り立つわけではなく、裏方がまたすごく大事です。芝居の好きな人でもあまり見えていない興行、経営的な面をあえて描こうと思ったんです。今回、役者については映画界に任せてしまおうと(笑)。
亀鶴興行はもともと関西から東京に進出した設定です。大正後期のスペイン風邪、関東大震災を経て東京でうわっと大きく成長します。関西にも地盤があるため、そちらで芝居ができ、資金調達が可能だったから震災後の浅草あたりの映画館、芝居小屋を手中に収めていくことができたという足跡をたどらせました。興行におけるこうした運、不運は誰が悪いということではなしに、起きるものなんです。自然のなせる業とでも言いましょうか。そして近代化を考え、株式会社に組織改革していくことになります。そんな、興行界に散見される歴史の数々を亀鶴興行には託しました。
―― 事件は満州国皇帝溥儀を木挽座に迎えた際に、上演した「勧進帳」のセリフが不敬だと難癖をつけられたことから始まります。川端専務の死は、その心労の末の自殺かと当初は思われます。
最初に木挽座に不敬だとねじ込んできた箕輪志辰という人物にもモデルがいるんですよね。「勧進帳」も実際に戦時中、改訂されていたことがあったんです。だからやはりケチがついたんだなと思いまして。東大寺再建の寄付を募る山伏一行と偽った弁慶が勧進帳を読みあげる件で、「(聖武天皇が)最愛の夫人に別れ追慕止み難く」とあるのですが、光明皇后は聖武天皇より後に亡くなっているのに、すでに亡くなっているように書かれているから不敬だと言わせることにしました。