メディア不信と被害者意識
再情報化とは、情報を増やすこと以上に、現実の認識を組み替える作業であった。この「隠された真実を知っている自分たち」という感覚を支えるのが、主流メディアに対する不信と、自らを抑圧された側に置く被害者意識である。
極右は、白人や伝統的な価値観を持つ人々を、移民の受け入れや左派的な価値観の広がりによって抑圧された「被害者」として描き出す。この構図では、「ポリティカル・コレクトネス」は自由な発言を許さない「新たな全体主義」とされ、差別的な言動への批判も「言論の自由に対する攻撃」にすり替えられる。つまり、他者を排除する言動すらも「奪われた声を取り戻し、自分たちの文明を守るための抵抗」であるかのように正当化するのである。
かつて国民戦線の創設メンバー、フランソワ・デュプラは「国家が植民地化されていると信じ込ませれば、やがてその解放のための方法も受け入れさせられる」と語った。この言葉には、「被害者意識の逆転」と「危機の捏造」という古典的な極右の戦略が詰まっている。国が移民によって「占領」されていると描くことで、移民を支援する人々は占領者への「協力者」に、排外主義を掲げる側は「レジスタンス」に位置づけられる。こうして、排除する側を「解放」の担い手に仕立て、図式を反転させるのだ。
極右は危機の物語を通じて、自分たちの主張を、追い詰められた人々の当然の抵抗として正当化する。そのため、彼らの結束は外部からの批判によってますます補強される。訴訟やアカウント停止、収益化停止なども、主張を見直すきっかけではなく、「真実を語ったために体制から攻撃されている」という迫害の物語に取り込まれる。
極右系サイトの運営者は、日々の運営費への寄付を募るときより、裁判費用への支援を訴えるときのほうが資金が集まると語っている。敵から攻撃されているという物語は、活動を支える重要な資源にもなっているのだ。
極右ネット界隈
今日の極右の「メタ政治」を担っているのは、もはや政党だけではない。フランス語で「ファッショスフェール」と呼ばれる「極右ネット界隈」には、ニュースサイトやブログ、動画配信者、個人のSNSアカウントなどが多く存在している。
かつてネット戦略で他党に先行していた国民戦線も、2010年代にはその優位を失っていく。しかしその頃には、ネット上の発信そのものが党の手を離れて広がっていた。FacebookやTwitterでは、活動家や支持者が自律的に情報を交換し、党の言葉を拡散する。党がすべての記事や投稿を制作し、配信を指示しなくても、ネット上の発信者に党の宣伝や文化戦争の一部を「外注」できるような地盤が形成されていたのである。
極右メディア圏は、銀河系のようなものである。そこには明確な中央組織も、統一された教義もない。その中にはFdesouche(詳しくは後述)のような老舗の極右サイト、反ユダヤ主義・陰謀論的なネットワーク、伝統主義カトリックなど、異なる潮流が併存する。彼らは立場や主張に違いはあれど、主流メディアへの不信や、移民、治安、イスラムといった共通の争点を通じて緩やかにつながり、記事の転載や相互紹介によって互いの影響力を増幅している。
あるサイトが拾った事件を別のアカウントが拡散し、動画配信者が取り上げ、政治家が反応し、さらに一般メディアが報じる。誰かが全体を指揮しなくても、情報が複数の回路を渡ることで、小さな話題でも全国的な政治問題へと押し上げることができるのだ。
こうした「極右ネット界隈」の分散性は、ネットではむしろ強みになる。選挙で支持を広げたい政党が、露骨に人種主義的・暴力的に見える言葉から距離を取り、「脱悪魔化」を進める一方で、党の外にいる活動家やインフルエンサーは、より過激で挑発的な表現を使うことで「公に言ってよいこと」の範囲を押し広げ、「オーバートンの窓」(*3)を移動させる。「極右ネット界隈」が政党の外側で極右の世界観を広め、文化戦争を担い、政党がその選挙的利益を受け取るという、ある種の分業が成立しているのだ。
しかし、外部の発信者は党にとっていつも都合のよい応援団とは限らない。彼らは、自分たちの期待に応えない「十分に過激でない」政治家を批判し、より強硬な方向へ圧力をかけるロビー団体のような役割を果たすこともあるからだ。両者の関係には、協力と競合、相互利用と緊張が併存している。極右のネット空間は、一枚岩の宣伝機関ではない。互いに競合し、ときに衝突する複数の発信者が、結果として同じ争点や世界観を増幅しているのである。
*3 オーバートンの窓とは、米国の政策アナリストであったジョセフ・P・オーバートンが1990年代半ばに提起した概念で、ある時点で社会的に受け入れ可能とみなされ、政治家が公然と支持できる政策や主張の範囲を指す。世論や社会規範によってこの「窓」が移動すると、それまで過激・周縁的とされた主張も、主流の政治的選択肢となりうる。












