フランス極右とネット戦略の系譜
極右がネットに強いのは、単に時代の先を読んでいたからではなかった。国民連合の前身である国民戦線時代のメディア戦略は、あくまで既存のメディアから相手にされず、資金も乏しかった中で生まれた苦肉の策だった。先見の名というよりも制約から生まれた迂回路が、やがて党の強みになっていったのである。
極右のネット戦略の系譜は、インターネットの登場前にまでさかのぼる。国民戦線は、1980年代の結党初期から党首の言葉を支持者へ直接届けることを意識しており、当時流通していたカセットやビデオに党首ジャン=マリー・ルペンの演説を収録して支持者に送り、ミニテルというフランスの「ネットの先駆け」文字情報サービスにも進出していた。1990年代には、電話をかければ論説や党の情報を聞ける音声サービスを開始し、党機関紙の発行を待たずに情報を伝えることのできる回路を切り開いていた。
1995年にインターネットが誕生すると、その翌年、国民戦線はフランスの全国政党として初めて公式サイトを開設した。自前のサイトなら、ジャーナリストに何を取り上げられるか気にする必要もない。内紛も離反も、都合の悪い過去は編集で消せる。ネットは単なる広報の窓口ではなく、極右が望ましい自己像を構築するかっこうの舞台でもあった。
その後、国民戦線は危機に陥るたびに、その活路をネットに見出すことで「復活」を遂げてきた。1998〜99年の党内分裂で人材と資金を失っても、低コストのネットで発信を続けた。「ルペンショック」が起きた2002年の大統領選挙(*1)では、YouTube登場の3年前にもかかわらず、動画サイト「ルペンTV」を開設していた。
自前のテレビ局を持ち、見たい人が見たい時間にルペンを見られるようにするという長年の夢を、いち早くネットで形にしたのだ。2007年の選挙敗北後には、財政難から党の機関紙までが破綻するも、その穴を埋めたのはまたしてもネットだった。余裕があるからではなく、余裕がないからこそ、ネットは党の生命線になっていった。
ネットの利点は発信する側だけにとどまらなかった。かつて国民戦線の党機関紙は、購読を周囲に知られたくない支持者のために黒い包装で送られていた。しかしネットなら、周囲を気にすることなく匿名で読める。ネットは、発信の費用だけでなく、極右の情報に触れる側の心理的な敷居も下げたのだ。
さらにSNSの普及は、極右が切り開いていたネット発信の回路の起爆剤となった。マリーヌ・ルペンは、SNSを、政策を訴えるためだけでなく、親しみやすい人物像を演出する「脱悪魔化」のためにも積極的に活用した(「脱悪魔化」については第6回記事を参照)。 バカンスや友人との時間、子猫を抱く姿をブログに載せ、Facebookでは支持者と動画で直接やり取りする。ネットでは、何を語り、どう見せるかを自分で決められる。
極右のネット利用は、最初から政治戦略として設計されたわけではなかった。主流メディアを迂回しなければ生き残れないという実務的な必要が、直接発信の技術と文化を蓄積させたのである。
しかし、党の外側に広がるネットワークにまで目を向ければ、その役割は単なる政党の広報には収まらない。独自のメディアを通じて異端的な言説を公共空間に残す。特定の政党のイメージだけでなく、社会のものの見方そのものを変える。人々が何を「常識」とし、何を「真実」とみなすかに働きかける。――あくまで必要に迫られて切り開かれた極右のオルタナメディアは、こうした「文化戦争」を支えるインフラになっていった。このような極右のネット戦略を支えた思想を読み解く鍵となるのが、「右派グラムシ主義」と「再情報化」である。
*1 「ルペンショック」とは、2002年のフランス大統領選挙第1回投票で、国民戦線党首ジャン=マリー・ルペンが社会党候補リオネル・ジョスパンを上回り、極右候補として初めて決選投票に進出し、フランス社会に大きな衝撃を与えた出来事を指す。これをきっかけに全国で反極右デモが広がった(詳しくは第1回記事を参照)。












