新聞が潰れたあと、記者たちはどう生き延びるのか『絶遠の春』堂場瞬一 インタビュー_1
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「春が来ない」のに「春」とつけた理由

──夏、秋、冬で完結し、「春が来ない三部作」の十年ぶりの続編です。

 一番悩んだのはタイトルでした。春が来るような状況ではないのに「春」とつけるのもおかしいだろうと考え込んでしまいました。結局こういう厳しいタイトルになってしまいましたが。

──前作『社長室の冬』のインタビューで、続編を書くとしたら十年後。その時には日本新報はもうないかもしれない、とおっしゃっていました。

 自分でもすっかり忘れていましたが、おそらくずっと頭の片隅にあったんでしょうね。

──実際、『絶遠の春』は、社員三千人以上を抱える日本新報が最後の日を迎えるところから始まります。

 日本新報が潰れる過程を書くか、潰れたあとの話を書くか。ここは技術的にかなり悩んだところです。
 普通なら、潰れましたというところで話が終わるパターンが多いですよね。でも潰れたあとをシミュレーションしたほうが、多少なりとも前向きな話になるかと思ったんです。ただ、実際に書いてみたら全然前向きにはならなかった。
 三千人もいた社員がその後どうなったのか、リアルに考えるともっと悲惨な話になるはずですが、それでは救いがなさすぎるので、せめて前を向こうとする人たちを書きました。それでも結局、あまりうまくいかない。現実とはそういうものだよね、ということですね。

──主人公の南康祐が、これまでの三作では「巻き込まれ型」だったのに、今回は自分から事を起こします。『社長室の冬』にも登場した日本新報の元社長、新里(にいざと)に「君は変わったな」と言われますね。

 この十年で彼に何があったのかということですね。給料はどんどん下がっていくし、前向きになれる材料は何もない十年間だったはずです。では、なぜ彼は最後まで日本新報にいて、会社が潰れたあとでも日本新報の名を継ぐ「日新ネットS」を立ち上げるほどがんばるのか。それは僕にとっても謎なんです。この十年で新聞記者としての使命感が芽生えたのかもしれないと想像はしていますが、それをはっきり作中で書くと格好つけた話になってしまうので、あえて説明はしませんでした。
『絶遠の春』は、所属していた新聞社がなくなったあと、記者たちがどう生き延びるかを描くことになるので、最初から地面をはいずり回るような話になるだろうと予想していました。社会におけるメディアの役割がどうのこうのと理屈を言っても仕方がない。とりあえず何かをしなくてはいけない。じゃあ、みんなで何ができるのかというのが出発点でした。

お金を払ってでも読みたい「ニュース」とは

──自分たちに何ができるのか。そこで南は「日新ネットS」というネットメディアを立ち上げるべく動きます。日本新報で総務局長を務めた新谷(しんたに)まどかを社長に据え、南のポジションは最年長の記者であり、実質的なナンバー2に。「日新ネットS」は総勢わずか十四人で船出します。

 でも漕ぎ出していくのは荒海です。現実でも、新しいメディアはなかなか出てきていませんよね。なぜ新しいメディアが出てこないのかが謎だったんですが、考えてみると参入障壁がいろいろあります。新聞やテレビは記者クラブなどの既得権益を守ろうとして新しいメディアを排除するだろうし、有料会員を集めるのも、広告を取るのも難しい。八方ふさがりです。

──南が立ち上げる「日新ネットS」も日本新報の精神を受け継ぐという形で、まったく新しいメディアではないんですよね。

 そこが彼の限界。おそらくオールドメディアにいる人たちの限界だと思います。看板を背負って取材するということが当たり前だから。

──知名度はありますし、出自がわかるから、取材される側に安心感がある。作中でもそういう場面が描かれています。

 でも、取材できたとしても難しいと思うんですよ。やっていることは新聞時代と同じで、どんなニュースなら読者が買ってくれるかという大きな問題が解決されていない。通常のニュースをネットでバラ売りして、果たして売れるのかという大きな疑問があるんです。

──作中でも「ネットの記事は、芸能とスポーツが、圧倒的にアクセス数が多い」という話が出てきます。

 芸能とスポーツ以外だと、投資に興味がある人は経済ニュースならお金を払ってでも読みたいかもしれない。でも、政治のニュースはSNSでバズることはあっても、お金を払ってまで読みたいかというとそうでもない気がします。事件ものは身近なものならともかく、遠く離れた土地で起きたことにはお金を払うほどの価値はないと判断されるでしょう。ではニュースの価値とは何か、という話になると、そもそもニュースとは何かを書かなければならなくなるので、今回は踏み込んでいませんが。

──『絶遠の春』では、ニュースとは何かを深掘りしない代わりに、ニュースを発信する報道機関がなくなったら、世界はどうなるのかという問いが作品の底に流れていますよね。

 客観的にニュースを報道するメディアがなくなり、個人の主観で発信するニュースしかなくなった時、世の中がどうなるのかについては興味があります。個人が発信する情報には勘違いや噓もあれば、バイアスもかかる。特に政治家の発言は、どこまで信用できるかわかりません。
 これから二十年後ぐらいを舞台に、あらゆる報道機関がなくなった世界がどうなるのかを小説で書いてみたいという気持ちもあります。個人や団体の出す情報がチェックなしでただただネット上に流れているのか、それとも何らかの形で事実関係が検証されるのか。今でもファクトチェックは行われていますけど、ネットで情報が流れるだけになった世界ではどうなるのか? ファクトチェックがビジネスになるのか、NPOがボランティア的にやるようになるのか。

──非営利のNPOがボランティアでやるにしても最低限の経費は必要ですよね。誰がお金を出すのか。『絶遠の春』には「お金」の話がたくさん出てきます。南たちが立ち上げる「日新ネットS」の有料会員の会費と会員数、事務所の維持費、給料、経費など、生々しい数字が並びます。

 現場で取材している記者はお金のことはほとんど考えていません。考えるとしてもせいぜいこの取材に経費がいくらかかるかなぐらい。会社全体の経営に関しては何も考えてないと思います。新聞の場合、一介の記者がそれを考える必要はないだろうというのが常識です。
 そこであらためて思ったのは、いろいろな人が支えてくれていてニュースが発信されるんだということ。お金の計算をしてくれる人、広告を取ってくる人や、新聞なら新聞を売ってくれる人がいてニュースが出ていく。そういう人たちがいないと、取材して原稿を書くことに専念するのは難しいことなんだとあらためて思いました。

──ニュースは空気みたいに当たり前に存在するものだと思っていますが、実はいつなくなるのかわからない。

 そうです。『絶遠の春』でも書きましたが、実はニュースを一本出すのにすごい手間がかかっている。情報には食べ物や服のような実体がないので、何となくただで出てきたもののように見られがちですが、それは大きな間違いです。だからコストのことを考えれば、ニュースがなくなる世界がありうるのかもしれない。これから十年、二十年、三十年と、先を見ていかないとと思いますね。