練習が終われば、蔦は浴びるように酒にれた

高校野球史にその名を刻む池田高校の名将・蔦文也氏(写真/共同通信社)
高校野球史にその名を刻む池田高校の名将・蔦文也氏(写真/共同通信社)
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高度経済成長にひた走る社会を現役世代として支えたのが、戦中派だった。一般に戦中派は、第二次世界大戦中に青春期を過ごした1917年から27年生まれの世代を指す。とりわけ戦没者が多かったのが20~23年生まれで、蔦もそこに含まれる。

蔦の経歴なら、経済成長を牽引する大学出の戦中派エリートの一員に加わってもおかしくなかった。しかし蔦は、27歳でプロ野球選手を引退してからは、山間の小さな町にとどまり続けた。ノックバットを手にグラウンドに立っていた。

蔦が池田にとどまった理由は、それほど能動的なものではなかったと推測する。

終戦に伴い、蔦が高校時代まで住んでいた小松島の家は処分されていた。それでも蔦家には、蔦の東急フライヤーズ入団時の契約金30万円の残りと本家、数件の貸家が残されていた。

乳飲み子と妻を抱えた蔦は、池田にとどまり続けるしかなかったのだ。

蔦は同志社大で教職課程を修めていた。

教諭になった理由を「でもしか先生」であったとのちに明かしている。教師に〝でも〞なろうか。教師に〝しか〞なれない。需要増加にともない教師の採用数が増えた時代。手違いで高校ではなく中学の教員採用試験を受験したにもかかわらず、高校で採用されたという。

1951年に池田高校の教諭に着任する。高校野球憲章で定められたルールでは、プロ野球経験者が高校野球の指導に関わるまで、一年待つ必要がある。そのため野球部監督に就いたのは翌52年春、蔦は28歳になっていた。

監督に就いた年、次男の隆司が生まれた。

隆司が父から買ってもらったものはグローブ一つ。それ以外のものを買い与えられた記憶はない。家族で旅行することは一度もなかった。練習の休みが元日しかないからだ。

練習が終われば、蔦は浴びるように酒に溺れた。「大酒飲みだったからね」と隆司は話していた。

酒好きの傑物監督。それが蔦のパブリックイメージの一つだ。飲み歩いた末に旅館にたどり着く、若き日の蔦を内田も見ていた。

何が蔦を酒に走らせたのだろうか。わたしは再び考えた。