部員数わずか11人による甲子園決勝進出
内田は蔦を「プロ野球くずれ」と言った。その表現は、30代の蔦、無名時代の蔦に対する、町の人々の当時の見方を端的に示していた。復員して特攻くずれと揶揄された蔦は、プロ野球で失敗した後にはプロ野球くずれとも呼ばれた。酒に溺れれば溺れるほど、周囲はその男を白眼視していった。
戦争で死に損なった。プロ野球に敗れた。日本は復興している。大学を出たエリートたちは都会で働いている。それなのに、俺は――。山間の小さな町でノックバットを振っている。高校野球監督としても勝てていない。何者にもなれない。
蔦は戦時中に酒を覚えた。はじまりからして、蔦にとっての酒は苦痛を忘れ、無理矢理に自分を奮い立たせるためのものだった。
忍び寄る死の恐怖を紛らわせるために飲んでいた酒が、終戦後には、満たされない生の焦燥を和らげるための酒に変わっていった。わたしの目にはそう映る。
監督就任後、蔦はおよそ20年を経て、甲子園に初めて出場する。1971年、47歳のときだ。三年後、池田は二度目の出場となった甲子園で準優勝を果たす。部員数わずか11人による決勝進出は、メディアから「さわやかイレブン」と称賛された。
無名だった蔦が、池田が、あまりにも鮮やかに世間に知れ渡る契機になった1974年のチーム。そのエースであった山本智久に会うことができた。
昼過ぎの高知駅。改札で待ち合わせていた。事前の調べで、高校時代に180センチを超える長身であったことを知っていたため、わたしはすぐに彼を見つけることができた。
駅近くのカフェに入る。山本は席に座ると、マスクをゆっくり外した。それを丁寧に折りたたんで、テーブルの上に置いた。
50年前、山間の公立校による快進撃。その立て役者による追憶は静かにはじまった。
文/田中仰













