黄金期の主将・江上に会う
資金繰りについては蔦も、監督退任直後に切実な本音を漏らしている。
《40年、いろいろあったが、いちばん頭が痛かったのはやっぱり金じゃな》(『週刊ポスト』1992年4月10日号)
白川が記した、貴族的であったという蔦の野球用具へのこだわりも、池田を強くするためであった。蔦は切実に、金を必要としていた。
勝つためには金がいる。
勝てば好素材の中学生が入ってくる。
そのためには甲子園に出続けなければならないが、甲子園に出るとさらに金がかかる。
一度でも止まってしまえば、資金がショートする。
蔦の逃げ道は、どこにもなかった。
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「4500万円の寄付金集めですか? 僕らは知らないです」
江上光治は本心から驚いたように言った。
1982年から夏と春の甲子園を連覇したメンバーで、83年のチームで主将だった人物だ。卒業後は早稲田大野球部でも主将を務め、日本生命の社会人野球チームに進んだ。
わたしは江上に取材をするため、和歌山市駅近くのカフェを訪れていた。
「蔦さんや白川さんがやってくれていたのかと思います。でも僕らにはそういうところは見せなかったので」
金属バット、筋力トレーニング、そして金。これまでの自説を確かめるように、江上に話を訊いていく。
「池田についてまわるイメージ、違うなと思っていました」江上は言った。













