ファントム偵察機、九大に墜落

同じ年の6月2日夜10時48分ごろ、福岡湾岸に「ドッカーン」と耳をつんざく轟音がとどろいた。実家を出て名島寮(※九州大学YMCA学生寮、現・一麦寮の前身)に入寮していた中村と宮﨑は、思わず飛び上がった。何ごとが起きたのか、と寮生が1階の食堂を兼ねたホールに集まっていると「米軍の戦闘機が箱崎の工学部キャンパスに落ちたらしい」と人づてに聞こえてきた。

中村と宮﨑は、寮を出て裏の坂道を上がり、多々良川に架かる名島橋を渡った。箱崎の工学部まで1.5ロの距離がある。工学部に近づくにつれ、焦げくさい臭いが漂ってきた。

箱崎キャンパスに建設中の6階建ての電子計算センターが燃えていた。

米軍の板付飛行場(現・福岡空港)に属するRF-4Cファントム偵察機が、飛行場への着陸を誤って、電算センターの屋上に墜落したのだ。機体は工事中の建物に引っかかったまま炎上している。

この日は日曜日だったので工事現場に人影はなく、2人のパイロットも墜落寸前にパラシュートで脱出し、人的な被害はなかった。が、もしもタイミングが何分の1秒かずれて、人家がひしめく街なかに機体が墜落していたら、一面、火の海になって死傷者が出ていただろう。

福岡市東区の多々良川に架かる名島橋。国道三号線が通っている。1968年6月2日夜、ここから1.5キロ離れた九大工学部に米軍の戦闘機が墜落した(撮影/山岡淳一郎)
福岡市東区の多々良川に架かる名島橋。国道三号線が通っている。1968年6月2日夜、ここから1.5キロ離れた九大工学部に米軍の戦闘機が墜落した(撮影/山岡淳一郎)

中村と宮﨑は校門に近寄り、なかに入ろうとした。その瞬間、身がすくんで立ち止まる。

あたりをガードしていた数人のアメリカ兵が、駆け寄って、いっせいに身構えた。

カシャッと音がして、米兵たちは、自動小銃を2人に突きつけたのだ。

「もう、びっくりしました。自分の大学に戦闘機が墜ちたのですから、現場を確かめたいのは当たり前でしょう。それなのにカービン銃みたいなのを向けられて、構内に入れんのですよ。怖くてガタガタ震えました。戦慄と同時に日本は戦争に負けて一時期、アメリカに占領されたけど、1952年に独立したんじゃないのか、米兵はよその国で、こんなことをするのか、と怒りがこみ上げてきました。もちろん、哲君も怒ってましたよ」

と宮崎はつい昨日のことのように言う。

工事現場にひっかかったファントムの残骸の処理をめぐって、九大は「大学の自治」という試練を突きつけられる。大学当局は、米軍をキャンパス構内に入れず、自主的に機体を引き降ろす方針を立てた。

しかし、引き降ろしに反対する学生たちは、現場に宙づりの機体を「反戦のシンボル」として残せと主張し、8月1日、工事中の建物のまわりにバリケードを築き、立て籠もる。

12月21日午後8時、箱崎の九大本部で、学生自治会の代表と、中核派など約70人の学生が、総長や副学長らを相手にファントム機引き降ろしの撤回を求めて交渉を始めた。

この交渉の場に医学部自治会の委員、中村哲もいた。過激な学生が教授たちを帝国主義の手先と罵るのを横目に、中村は平和とは何か、穏やかなトーンで語りかけた。

その中村の演説を、「こいつ、他の奴らと違うな。話が心にしみるなぁ」と聞き惚れる男がいた。中村より3学年上の九大経済学部の大学院生、佐藤誠(現・熊本大学名誉教授)だった。

徹夜の交渉が終わると、佐藤は、血のついたタオルを首からぶら下げた中村に近づき、「きみの演説、気に入った。うちに遊びにこないか」と声をかけた。「ああ、どうも」と中村は照れた。佐藤がクリスチャンだと知って、中村は打ち解け、結婚したばかりの佐藤の家に足を運んだ。