「宝塚版」と「韓国版」のちがい
物語はオスカルの誕生から始まる。ライオンキングみたいに、赤子のオスカルを暗い空に抱き上げて力強く語るジャルジェ将軍。韓国語は全くわからない。けれど、「お前の名はオスカルだ!」という原作のセリフが、そのまま脳みそに直接響いてくる。
同時期に上演されていた宝塚歌劇団の「ベルばら」のオープニングでは、水色の服の小公子、ピンクの服の小公女がどっと出てきて、シャンシャンを振り振り明るく歌う。初演以来50年ずっと変らないその華やかさとは対照的に、韓国版のそれはシリアスだ。
韓国で上演されていたミュージカルの『ベルサイユのばら』を、原作者の池田理代子先生がご自身のブログで絶賛しておられるのを見て、矢も楯もたまらず2泊3日の観劇ツアーを組み、はるばるソウルまでやってきたのだった。
声量があり歌も踊りもうまい、韓国のミュージカル俳優たちの演技に、たちまち引き込まれる。もちろん字幕など出ないのだが、原作の大事なシーンを過不足なく織り込んでいるので、たとえば「ここはアンドレが『今夜はお前を抱いて歩くぞ』っていう名シーンだ!」などと、原作の一コマが脳裏に浮かぶ。
170センチ越えの長身のオスカル(オク・ジュヒョン)を、さらにスラリと大きいアンドレ(コ・ウンソン)が抱き上げて歩く、原作でも屈指のシーンに、「脚本家も監督も、原作を愛して大事にしている!」「余計なものは何も足していない!」と思うと、それだけで無性に泣けてしまった。
なぜ女性のオスカルが男装し、軍人になったのか、どうして革命に身を投じたのかを順を追って丁寧に描いているのだ。
ロザリーの母が馬車にはねられたり、幼いベルナールが無理心中に巻き込まれたりするなど、原作に描かれた登場人物のバックボーンや、革命が起きる当時のフランスの国情を細かく入れ込んでストーリーは進む。
原作者の池田理代子先生は、英語もイタリア語もドイツ語も使いこなすが、韓国語は堪能ではない。それでも「わかった」そうだ。先生の「描いたからわかる」という言葉には、シーンをていねいに追っているというだけではなく、フランス革命を通じて先生が伝えたかったメッセージが再現されているという意味がこめられているのではないだろうか。
観客がみんな、『ベルサイユのばら』を読んで知っているという前提で作られている宝塚版との違いはそこなのかもしれない。
宝塚版はフランス革命の悲劇の予感がまるでしない夢のようなオープニング、身分の違いに隔てられた恋などを経て、アントワネットが処刑台の階段を上るラストに向かっていく。
一方韓国版では、物語はオスカルが革命に身を投じて倒れるところでエンディングを迎えるので、その点では「マリー・アントワネット」の生涯をも描き切った原作の、もうひとつの軸に力点は置かれていない。親衛隊として王妃に仕えてきたオスカルが、民衆のために位を捨てて国家に剣を向けるまでの気持ちの動きや社会的背景を、ダイナミックに描いている。