いわゆる「突撃取材」
今回の疑惑は関係者が多いだけに、チーム取材となる。本社の報道センター社会担当からは和多正憲と河野揚を応援にもらい、編集委員の荒木とともに計3人で上京。中川雅晴をはじめ東京支社編集部の4人と合流し、7人体制で取材に臨むことにした。
和多は広島市政チームをまとめるキャップだが、20~21年に編成されていた専従取材班の当時からこの事件を追ってきた。河野は県政チームのサブキャップを務めているが、東京支社時代の20~21年に河井夫妻の公判取材を担当。腱鞘炎になりながら連日、長時間の公判を取材し、記事を書き続けた。
東京で出迎えた中川は、同じ熱量で取材できる先輩記者2人と再会してうれしくなった。
取材の前線拠点は総理大臣官邸の向かいにある国会記者会館内の会議室に置いた。中国新聞の記者は普段、ほかの地方紙10社とともに記者会館の一室を共有して仕事をしているが、今回のネタの内容や大きさを考えると、地方紙仲間といえども、情報管理に注意する必要があり、別室を用意してもらった。
記事を出すには、疑惑メモに記載された4人のうち、亡くなった安倍を除く菅、二階、甘利の3人に取材する必要があった。情報漏れのリスクを考えると、一斉に当たるしかない。決行日は9月7日の木曜日にした。それには理由があった。
自民党の派閥の多くが、毎週木曜日の正午に会合を開いていた。いわば、数が力とされる派閥にとっては、国会議員に他派閥との掛け持ちを許さない同じ時刻に開くことで、結束を確かめる場となっていた。
取材班はその会合に合わせて「アポなし取材」をすることにした。いわゆる「突撃取材」である。無派閥の菅を除き、二階派を率いる二階、麻生派にいる甘利はそこで取材できる可能性があった。
何度も繰り返してきた突撃取材だが、これほどの「大物」に当たるのは誰も慣れてはいなかった。