もう二度と食べられないあのラーメン

■学生時代に何百回も通った町中華「珉珉」
慶応義塾高等学校、慶応義塾大学出身の石破氏。慶応といえば三田の「ラーメン二郎」を思い浮かべるが、二郎は「1回食べただけ」とのこと。高校と大学2年生までの計5年間は横浜の日吉に通っていて、日吉の町中華「珉珉」が思い出の店だという。

「昭和47年から51年ぐらいでしょうか。本当によく通いました。何百回食べたかわかりません。メニューはタンメンと餃子の2つだけで、その2つのセット『タンメン餃子』は250円でした。思い出の味で、議員になってから一度訪れたのですが、閉店してしまっていました」(石破氏)

「人生で一番辛かった時期、深夜に妻と食べた一杯」 石破茂ラーメン議連会長が語る思い出のラーメンBEST3_b
「美味しいね~」と思わず笑みがこぼれる石破氏

■銀行員時代に深夜に食べた屋台ラーメン
大学卒業後、昭和54年には三井銀行(現・三井住友銀行)に入行した。当時は世田谷区喜多見に住んでいて、仕事を終えて終電に乗って最寄り駅に着くと、駅前に屋台が出ていたらしい。帰宅前にここで一杯のラーメンを食べるのが何よりもの喜びだったという。

「仕事で疲れて帰って屋台でラーメンを啜る。『これぞ昭和のサラリーマン!』と自己満足に浸る瞬間でした。醤油味でチャーシューが絶品で、絶妙に美味しい一杯でした」(石破氏)

■鳥取で政治活動中に奥さんと食べた「どさん娘らーめん」
昭和59年、27歳の時に出馬するため鳥取に戻った石破氏。政治活動で街を歩くもなかなか相手にされず、辛い日々が続いた。田中角栄氏の「握った手の数しか票は出ない」という言葉を胸に、暑い日も雪の日も毎日朝から晩まで街を歩き続けた。

「人生で一番辛かった時期ですね。1日600軒の家を回った日もありました。へとへとになって深夜に妻と二人で食べた『どさん娘らーめん』の塩バターラーメン。この世のものとは思えない美味しさでした。マスターに『あんた大変だねぇ』と声をかけていただいたのを覚えています。選挙に初当選して翌年に行ったら、もう閉店していてとても残念でした」(石破氏)

石破氏にとって、最も辛い時に支えてくれた一杯のラーメン。