議論を呼んだ
サッカーワールドカップ・カタール大会
2022年11月にカタールで開催されたサッカーのワールドカップは、日本でも大いに盛り上がった。このサッカー界最大のイベントは、スポーツ興行としてもオリンピックに次ぐ世界的に大規模な大会だけに、熱心なサッカーファンだけではなくカジュアルなスポーツ好きからもいつも幅広い注目を集める。今回も開催時期が近づくと、新聞・テレビ・オンラインメディアの報道は次第に熱を帯び、やがてスポーツニュース全体に占める報道量はサッカー一色に染まっていった。
日本代表はグループステージを首位で通過し、決勝トーナメントでは対クロアチア戦で敗れて準々決勝進出を逃したものの、そこに至るまでの選手たちの活躍と健闘には日本国中が沸いた。また、決勝戦のフランス対アルゼンチンはPK戦までもつれ込むドラマチックな試合内容で、多くの人々を魅了した。
FIFAの総括*1によると、この決勝戦が行なわれたルサイル・スタジアムの観戦者数は8万8966人。全世界の視聴者数は約15億人に達したという。ちなみに、カタール大会のスタジアム観戦者数の総計は、前回(ロシア大会:2018年)の300万人を上回る340万人。また、ソーシャルメディアではさまざまなプラットフォームで9360万のポスト(投稿)と59億5000万のエンゲージメント(深い関心や認知)、2620億の総リーチ数があったとするニールセンの報告を紹介している。
これらの数字を見れば、2022年の大会は確かに大成功を収めたといえそうだ。2200億ドル(約30兆円)を超える金額を投入して都市を整備し、スタジアムを建設して、カタールという中東の小国はサッカーという強力なソフトパワーで確実に世界的な存在感を高めた。
だが、この大会は、かつてないほど大きな議論を呼んだ大会でもあった。
フランスではボイコット呼びかけ、
デンマークも抗議
競技場建設などの苛酷な労働で多くの移民労働者が落命したこととその補償問題、また、性的少数者に対する抑圧といった前時代的な人権の取り扱いに対して、世界的な注目が集まるようになっていたのは、第一章でも紹介したとおりだ。また、大会が近づくにつれ、サッカーの熱狂でこの問題を押し流そうとするスポーツウォッシングだと指摘する議論は、ヨーロッパを中心に少しずつ大きくなってきた。
たとえば、フランスのある地方新聞は、大会を「ボイコット」して記事をいっさい報道しないと発表した*2。同じくフランスでは、パリやマルセイユ、ストラスブールなど複数の大都市が、ビッグスクリーンで多くの人々が観戦するファンゾーンを設置しないと決定。オーストラリアの代表チームは、カタールの人権状況を批判する声明を、大会開催が迫る10月27日に発表した*3。
また、デンマークのスポーツブランド・ヒュンメルは、同国代表のユニフォームデザインを地味なものにし、サードキットのカラーに黒を採用することでカタールへの抗議を表明した*4。デンマーク代表はさらに、選手たちが通常なら行動をともにする家族を帯同せず、単身で現地へ遠征に赴く、とも明らかにした*5。
このデンマーク代表チームをはじめ、イングランド、フランス、ドイツ、オランダなど7チームのキャプテンは、LGBTQ+の権利支持を意味するレインボーカラーをハートマークに配して多様性と包摂性を象徴する〈One Love〉デザインの腕章を着用すると表明した。しかし、FIFAからイエローカードなどの制裁を科されるおそれがあるとして、最終的には着用を断念するに至った。
FIFAが〈OneLove〉腕章に対して厳しい態度を見せたのは、選手たちに対してピッチ上では政治的に中立であることを求めているからだとされている。「政治的中立性」という主催者側の大義名分と、平等を訴えようとする選手たちは、過去にも大きなスポーツ大会でたびたび対立してきた。
多様性の支持や差別反対を訴える選手たちの意思表示行動ははたして政治的活動なのか、という課題については、第八章で詳細に検討する。ここではひとまず、この見解の対立には長い歴史がある、という指摘にとどめておきたい。
当初に予定していた〈One Love〉腕章を着用できなかったことに対して、前述の7チームが所属するサッカー協会は、共同声明でFIFAの決定に対して不満の意を表明している*6。また、ドイツ代表の選手たちは、初戦の対日本戦で試合前に集合写真を撮影する際、片手で口を覆うジェスチャーで抗議を示した。その様子は、対戦国だった日本のメディアでも広く報道された。