典型的な悪文を一生懸命読み解かなければならない、かわいそうな受験生

本稿の筆者である僕は長年にわたり、編集者兼ライター/コラムニストを生業としてきた。
毎日のように何らかの文章を綴っているし、他人の書いた文を整えることも多い。そんな仕事柄もあって、読書量は人一倍多いという自覚もある。
つまり曲がりなりにも文章のプロであることを前提に言わせてもらうのだが、この国の入試における国語の問題は、明らかに歪んでいる。
いや、病んでいると言ってもいいのではないだろうか。

来年に高校受験を控える我が子の、国語の勉強のお手伝いをしていると、憤りに近い感情を抱いてしまうことがある。
文章を読んだうえでいくつかの設問に答える問題で、題材となっている短い論説文の中には、途中で投げ出したくなるほど異様に難解なものがあるのだ。

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文章を読むのにも書くのにも慣れているはずの自分が、ゆっくり丁寧に読み進めても、何を言いたいのか、最後までさっぱり理解できないものさえある。
はっきり言ってしまえばそれは、読み手のことを無視し、文章本来の情報伝達機能を放棄した典型的な悪文だ。
そんな文章に付き合い、苦しまなければならない受験生が気の毒になってくるほどである。

それは今に始まったことではなく、僕自身が受験生だった数十年前も状況はまったく同じだった。きっと僕より前の世代も、同じようなものだったのだろう。
そして、背景にある事情についておおよその察しはつく。

ほとんどの受験生にとっての母語である“日本語”をテーマにした学科・国語の試験問題は、平易な文章では得点に差がつきにくい。
そこで合格・不合格を振り分けるため、どうしても得点に差をつけなければならない入試では敢えて、極めてわかりにくい文章がピックアップされるのだ。
特に、総じて学力が高く、優れた読解スキルを持つ受験生が多い難関校の入試では、その傾向が顕著になる。

入試問題で使われるそうした難解な論説文は、ほとんどの場合、すでに出版されている書籍や雑誌、新聞などから引用されたものである。
それらの書き手の名前を見ると、文章のわかりやすさと著者の知識・知能レベルが、完全に相関するわけではないということがわかる。
大変失礼ながら、読んでいるうちに書いた野郎をぶっ飛ばしたくなる大悪文の多くは、「先生」と呼ばれるような名のある人が書いているからだ。

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それは何かの道を究めた専門家であったり教職者であったり、はたまた実業の世界で相当な地位を得ている人であったりといろいろだが、社会に認められたそんな立派な人が、びっくりするほどわけのわからない文章を書いていたりするのである。
きっと自分の頭の中で物事を考えるのは得意でも、アウトプットする能力が低い人たちなのだろう。

試験の出題者がそうした難しい文章を、“悪文”と認識しているのかどうかはわからないが、良くも悪くも受験生を苦しめようという意図を持って選んでいることは明らかだ。