“私は調査隊の編成からかかわった、生みの親の一人である”
その塚本の旧陸軍士官学校の1年先輩で、旧陸軍大学校では同期だった松本重夫は、塚本の出版から2ヵ月後の2008年12月、『自衛隊「影の部隊」情報戦秘録』を上梓した。
松本は戦後、サンケイ新聞(当時)の政治部記者を経て、陸上自衛隊調査隊の総括班長、調査学校の教官を務めた。本人が〈私は調査隊の編成からかかわった、生みの親の一人である〉と告白するように、〝調査隊のエキスパート〟だ。
ただし、松本は〈かつてマスコミや革新政党から「影の部隊」あるいは「影の軍隊」と呼ばれ、警戒された組織があった。自衛隊にあって情報収集と分析を専門に行う「調査隊」だ〉と同書の「はじめに」で記述しているが、これは完全に松本の誤解だ。
本来、「影の軍隊」は非公然組織の別班と青桐グループを指し、編制表に載っている公然組織の調査隊のことではない。
松本は著書の中で調査学校の対心理情報課程の戧設について次のように説明している。
〈調査学校の研究員として情報部隊の構築と教育体系を組み立てていた時代に、同僚の池田二郎は調査学校のカリキュラムの一つに「対心理課程」という名称をつけた。「対心理課程」というのは、実は米軍のグリーンベレーに相当する特殊部隊を育成することを想定した教育課程だった。初期の私たちのイメージでは、自衛隊の中でも精鋭を集めたレンジャー部隊の中から選別し、さらに独立した部隊として、情報収集から特殊工作活動を行うこともできる特殊部隊を養成しようという目的だった〉
〈彼らは知的ゲームのような「心理戦」を期待していたが、実際に山野や市中に入り込むような特殊部隊の訓練に戸惑っていた〉
誤解を招く記述を含む同書だが、対心理情報課程設立の目的と初期の訓練の様子については貴重な証言と言える。
また、松本は山本舜勝について次のように痛烈な批判も展開している。
〈山本氏らが調査学校の教官となり、「対心理課程」などの特殊部隊の養成を担当することになった。それが前述したように当初の私の構想とは異なった方向に進んでいたことは気づいていた。結局そのズレが「青桐事件」となり、三島由紀夫に「スパイごっこ」をさせてしまうような事態を招いてしまうことになったのだといわざるを得ない〉
対心理情報課程の初期、運営方法をめぐっても、関係者の思惑はさまざまだったことがわかる。