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非公然組織になった経緯

「秘密は墓場まで持って行く」ことが、自衛隊情報幹部の鉄則と仄聞していたが、山本舜勝が『自衛隊「影の部隊」』を著して以降、別班の関係者たちが、堰を切ったように次々と自らの経験を語り始めた。

『VIVANT』でもまだ謎の多い“別班”はなぜ非公然組織になったのか。元所属者による暴露本の衝撃的内容…しかし「過去も現在も存在しない」と防衛省(防衛庁)は主張_1
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2008年10月、陸上幕僚監部第2部長(情報部長)で〝朝鮮半島問題のエキスパート〟と称された塚本勝一は、在ソウル日本大使館で初代の防衛駐在官を務めていた時に発生した「よど号事件」について、自著『自衛隊の情報戦陸幕第二部長の回想』でその内幕を詳述している。

また、帰国後に就任した陸上幕僚監部第二部長として、陸上自衛隊の情報業務について概説する中、塚本は「昭和三十年代に始まったヒューミントの訓練」との項で、別班の生い立ちについて次のように述べるとともに、別班を非公然組織にしたことを率直に後悔している。

〈調査学校で情報の基本を学び、この分野に興味を示した十数名の要員を陸幕第二部の統制下にある部隊に臨時の派遣勤務とし、盲点となっていた情報の穴を埋める業務の訓練にあたらせることとなった。(中略)陸幕第二部は直接、情報資料の収集には当たらないが、情報のサイクルの第三段階、情報資料の処理、その評価と判定をするためには、それに必要な情報資料の収集を行なう。陸幕第二部の要員が部外の人と付き合って話を聞いても、職務から逸脱したことにならない〉
〈後ろめたいこともなく、ごく当然な施策なのだから、部外の人を相手にする部署を陸幕第二部の正規の班の一つとするべきだったと思う。しかし、教育訓練の一環ということで、予算措置の面から陸幕内の班にできなかったようである。私が陸幕第二部長であったときも、このヒューミントは教育訓練費によっていた。そのためもあり、都内を歩く交通費にもこと欠くありさまであった〉(筆者註:私が直接取材した元別班員たちの証言によれば「活動資金は潤沢だった」とのことだが、草戧期は資金難だったようだ)

塚本は1973年に陸幕第二部長から陸上自衛隊通信学校長に異動すると、その直後に金大中事件が発生した。

事件に関わった元別班員で、興信所「ミリオン資料サービス」所長の坪山晃三について、塚本は〈有能な幹部であり、仕事にも積極的であった。ところが昭和四十八年六月二十日頃、彼の退職願いが部内の順序を経て、第二部長であった私のもとに届いた。情報に興味を持ち、陸幕第二部での長期勤務を希望していた坪山三佐が、なぜ中途退職するのか怪訝に思った〉と述懐している。

だが、〈部長としては、慰留や説得をすることはできても、退職を拒否する権限はない〉とも述べ、塚本が坪山らを形だけ退職させて、ダミーの興信所を設立させたとの説を否定している。