「同志」と呼ぶラフィンノーズとKERAの深い絆
僕が再結成後の有頂天を初めて観たのは2016年9月17日、新宿ロフトでのライブだった。その日は新宿ゴールデン街のパンクバー、H.O.D.が主催する企画で、有頂天の対バンは、なんと、あのラフィンノーズだった。
登場した有頂天のメンバーを見て鳥肌がたった。KERAをはじめ全員が、黄色と黒基調のお揃いのコスチュームで身を固めていたからだ。再結成のニュースはリアルタイムで耳に入り、2015年にリリースされたミニアルバムも聴いていたけれど、僕はそれこそ気まぐれで期間限定の、よくある再結成だろうと鷹を括っていた。だが、有頂天がもっとも活動的だった“あの頃”=1980年代を彷彿とさせる、揃いのコスチュームで決めているのを見て、「ああ、KERAは本気なんだな」と悟ったのだ。
「ウィラードがいないので、残念ながら御三家じゃなくて“ゴニケ”だけど、すごいでしょ?」とオーディエンスに語りかけるKERAも、なんだかとても嬉しそうだった。
「当時はよく“インディーズ御三家”と言われていましたけど、少なくともウィラードは嫌だったと思いますよ、まとめられちゃって(笑)。僕らは、取り上げてもらえるなら何でもいいやと思っていて、『てんぷくトリオだったら有頂天は戸塚睦夫だ』と言って気楽に構えていましたけど(笑)。ラフィンは、いつも先頭にいなきゃいけないのが、なんだか常に大変そうに見えました。御三家の中で有頂天だけ毛色が違うように見えるでしょうが、チャーミー(ラフィンノーズのボーカル)が、AAレコードを始めた1983年か84年に、突然、電話をくれたことがあったんですよ。話の内容はよく覚えてないから、ちょっとした用事だったんだと思いますけど、その頃からずっとある種のシンパシーは感じていました。ラフィンがやってたAAレコードと、僕のナゴムレコードは、“手書き広告”仲間なので(笑)」
当時、KERAは主宰するナゴムレコードの広告を、毎月、「宝島」「DOLL」「FOOL’S MATE」の三誌に出広していた。その広告は、KERAが手書きした文字とイラストで埋め尽くされたもので、誌面の中では一際異彩を放っていた。そして、ラフィンノーズが運営するAAレコードも、主要メンバーであるチャーミーやポンが手書きで作った広告を、雑誌によく出していたのである。
そのラフィンノーズは人気絶頂期の1987年4月、日比谷野外音楽堂ライブで発生した雑踏事故によって活動休止を余儀なくされる。バンドの存続さえ危ういと見られていたラフィンノーズに、救いの手を差し伸べたのは他ならぬKERAだった。
当時の有頂天は毎年、横浜国立大学の学園祭に呼ばれてライブをしていたのだが、1987年11月、恒例の横国有頂天ライブをラフィンノーズ救済のために使おうと画策したのだ。KERAは、自分たちのギャラを半分にしてもいいからラフィンノーズを出したいと、主催者に交渉して無理やりOKを取り付けた。
2016年の新宿ロフトでのライブは、そのとき以来の対バンでもあったのだ。
「当時の世相とか、ラフィンに対する世間や業界の評価とか、彼らを誘ったことで僕らがどういうまなざしで見られるかとか、そんなことは何ひとつ考えていなかった。ラフィンがライブをやれなくなっている。きっともどかしく思っているだろうから、その場を作ろうっていう単純な考えで。でもポンやチャーミー、それに今はSAにいるNAOKIは、当時のことをずっと恩義に感じてくれているみたいで、その後何度も、『あのときはありがとう』と言われました。あの2016年のライブの日にも。僕としては、ラフィンノーズは同志のように思う気持ちがあります。音楽性に共通項はまったくなくても」