クラシックカーが富士スピードウェイを疾走
翌朝、参加者たちとクラシックカーは富士スピードウェイの本コースを走行した。地下駐車場では、すでに8時前から各自がその準備を始めている。涌井氏も、ロールスロイスの各メカニズムをチェックし終えると、スタッフの手を借りてルーフを下ろし始めた。
「せっかくコースを走れるので、オープンにして走ります」
キャンバス地のルーフを固定してあるいくつかの金具を外してから、畳むようにしてルーフを収めていく。幅広いボディのこちら側と向こう側で左右を揃えなければならないし、力も必要だから一人での開閉は不可能だ。現代のロールスロイス・ドーンでは、開閉はもちろんフル電動なので、ドライバーはボタンを押すだけで済んでしまう。
それにしても、こんなに長大なボディなのに、たった二人しか乗れない上に、キャンバス生地製ルーフのドロップヘッドクーペ(オープンのイギリス流呼称)というのが、なんとも贅沢ではないか。
「二人乗りではありません。リアシートは、ここに隠れているんですよ」
二人用のキャビンから後ろに少し間を開けたボディの天板を開くと、そこに後席が出現したのだから、さらに驚かされてしまった。
「ロールスロイスはオーナーが後席に乗る5人乗りのクルマだけとは限らないのですね。ごく少数ですが、このクルマのようにオーナー自らが運転を楽しむためのクルマも造られました。ふだんは仕舞われているこの後席は、ランブルシートと呼ばれる補助席です。パレードなどの際にオーナーが腰掛けるような臨時のシートです」
戦前のクルマの多くは、土台となるフレームの上に、別に造られたボディが載せられる構造を採っていた。特にロールスロイスやベントレーなどの高級車ともなると、馬車の時代から続いているコーチビルダーの手によって贅と美を尽くした自分だけのボディを誂えて、世界に一台だけのクルマを造り上げることにオーナーは喜びを見出していた。
そして、クラシックカーとなったそんな一台を後年になって手に入れて、最初のオーナーがどんな想いで誂えようとしていたかを想像することも、また楽しみのひとつだと涌井は『クラシックカー屋一代記』の中で詳しく述べている。今回の涌井氏のロールスロイスも、カールトンというコーチビルダー製のボディが架装されている。
富士スピードウェイの本コースは、マセラティMC20という現代のスーパーカーの先導でまず2周走った。MC20のハンドルを握ったのは、レーシングドライバーの関谷正徳氏。
慣熟走行だから、ペースはゆっくりだ。2周が終わると、次はバラバラにコースインしていく。ポルシェ・550RS(1955年)がエンジンから快音を轟かせながらストレートを駆け抜けていく。涌井氏のロールスロイスだけでなく、ランチア・ラムダ8a ルンゴ(1928年)やフォード・モデルA・フェートン(1931年)など戦前型のクルマも快調に周回を重ねていた。中には、コースアウトしたクルマもあってセーフティカーが出動したりしたが、大事にはいたらず何よりだった。