我が師の師
おもしろい。かつてこれほど読み飽きない履歴書があっただろうか。自らの来し方を、師とあおいだ人々との思い出に託して語るという企みのなんと魅力的なこと。
本書は著者、伊集院静氏の故郷山口での腕白少年時代に始まって、歳を重ねるにつれ訪れた地、過ごした場所において運命的に出会い、人生の珠玉を得た人々との交流記である。
なぜ伊集院さんの言葉が多くの読者の胸に突き刺さるのか。なぜ氏が記した『大人の流儀』(他社の刊行ですが)が多くの人の手に取られるのか。本書を拝読して合点がいった。
それにしても伊集院さんの脳みそに保存されているエピソードの豊かさには敬服する。私にも、親を始め先輩諸氏から与えられた大事な教えがたくさんあるはずだ。が、根がボーッとしているせいか、その瞬間は「大事」と思っても、まもなく忘れてしまう。そう、伊集院さんは、「これは肝心」と直感した言葉の前では決してボーッとしない。どんなに酔っ払っていても永久に保存する。一度師と決めたら、たとえその人が世間で非難されるようなことがあっても、世の風潮に流されて評価を違えることはない。
「いや、私はお世話になったから」
伊集院さんの心棒の頑強さは並みではない。その人のためならば、どれほど原稿の締切を抱えていても東奔西走して救い、なぐさめ、闘う方なのだ。
伊集院さんは武士である。ときに酒に溺れ、あちこちに携帯を置き忘れ、身体を壊すこともある。しかし武士たる矜恃を捨て去ることはない。
だいぶ昔、伊集院さんが珍しく泥酔し、気づいたら銀座の路上に横たわっていたことがあったという。警察官が通りかかり、「もしもし、大丈夫ですか?」と声をかけた。目覚めた伊集院さんはゆっくり身体を起こしながら答えたそうだ。
「大丈夫だ。それより君たちは大丈夫か?」
どんなにヨレヨレになろうとも相手を思いやり、その人の後ろにいる家族の存在に思いを馳せる。私はこの話が好きだ。今、父亡きあと、伊集院さんの鋭いまなざしを感じるたびに背筋が伸びる。伊集院さんは私の師である。
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