僕の役割は、周囲の小さな声を世間へと伝えるスピーカー。石巻市大川小学校の保護者の方々の声にならない声を伝える。

もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】_1
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間もなく12年目の東日本大震災の日がやってきます。

小学3年生で被災した岩手出身の佐々木朗希選手が今春、WBCの日本代表に選出されている姿を見て、月日の流れを感じずにはいられません。しかしながら、あの時から、時が止まったままという方も少なくないかと思います。

寺田和弘監督によるドキュメンタリー映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』は、2011年3月11日、津波の被害にあった被災地において、児童74人(うち4人は行方不明)、教職員10名という、他にはない大きな犠牲を出した理由を、宮城県石巻市、大川小学校の遺族たちが行政に問い続け、真相を追求した記録となります。

小学校の裏山に避難できる条件があったにもかかわらず、地震発生から51分、生徒たちは校庭に留め置かれ、教員たちが避難先を決めかね、結果的に避難が遅れてしまったことは、日本中に大きな衝撃を与えることとなりました。

「なぜ大川小学校だけ、多数の死者を出したのか」
「あの日、何が起きたのか」

保護者たちの問いは、生き残った教諭、当日学校に不在だった校長、所轄の教育委員会や石巻市の市長に投げかけられますが、1回目の説明会からずっと、要領を得ない話しか戻ってこない。事実を解明するため、遺族のうち19家族23人が、2014年3月10日、石巻市と宮城県を被告とし、仙台地裁に損害賠償請求訴訟を提起。そこから最高裁に至るまでの月日の中で、行政の安全対策に穴があったことをひとつひとつ、親たちが調査し、実証していく姿が収められています。

もし、自分がこの親御さんの立場だったら……。当事者の目線で、遺族たちの心境の変遷を見守り続けた寺田監督にお話を伺いました。

もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】_2

監督・寺田和弘(Kazuhiro Terada)
1971年兵庫県神戸市出身。1990年神戸高塚高校卒業。1999年から2010年までテレビ朝日『サンデープロジェクト』特集班ディレクター。シリーズ企画『言論は大丈夫か』などを担当。

2011年から所属する番組制作会社パオネットワークで、主に社会問題を中心に番組制作を 行う。近年はアイヌの“先住権”問題の取材に取り組んでいる。

受賞作に『シリーズ言論は大丈夫か~ビラ配り逮捕と公安~』(テレビ朝日・ABC サンデー プロジェクト、2006年JCJ賞)、『DNA鑑定の闇~捜査機関“独占”の危険性』(テレビ朝 日、2015年テレメンタリー年間最優秀賞・ギャラクシー賞奨励賞)がある。本作『「生きる」 大川小学校 津波裁判を闘った人たち』が、長編ドキュメンタリー映画初監督作品となる。
https://creators.yahoo.co.jp/teradakazuhiro

卒業して4か月後に女子生徒が学校で事故死した。誰かが声を上げていたら、命は失われずにすんだかもしれない。

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──『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』(以下、『生きる』)の話の前に、ひとつ伺いたいことがあります。寺田監督のプロフィールにある神戸高塚高校は、私の出身と同じ神戸にあるのですが、1990年、遅刻を取り締まるため、登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、当時15歳の女子生徒が門扉に頭を挟まれて、亡くなられた学校ですよね。寺田監督が一貫して、弱者の声を拾う報道を手掛けていらっしゃるのは、このことが関係しているでしょうか?

「この『生きる』に関しては、制作中にそのことを意識したかというと、意識はしていないですね。ただ、これまであまり公にはしてこなかったけれど、自分の胸にずっと引っかかっている事件であったことは事実です。僕が卒業した年の4か月後、彼女は遅刻しないように駆け込んだ校門に挟まれて亡くなったんですけど、当時、僕たちの高校は新設校で、理不尽な指導が多かった。みんな、影では『なんだよ、こんな規則』と文句を言ったりはしていたけれど、生徒が先生たちに、こんなことまでする必要がありますかと、誰も面と向かって言わなかった。もし、僕が、もしくは誰か一人が、在学中に、『校門を強制的に閉める指導はおかしい』と声を上げていたら、彼女の命は失われずにすんだかもしれません」

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──教員がルーティンでやっている習慣が、学校で生徒が亡くなってしまう原因になってしまう。声を上げる大切さは、『生きる』でもずっと描かれていることですね。次女を亡くした紫桃隆洋さん・さよみさん夫妻、娘を亡くした只野英昭さんなど、みなさんのご自宅でどんなお子さんだったか、話を聞いてらっしゃいますが、どのような経緯で映画を撮ることになったのですか?

「僕はですね、大川小学校の事案をそれまで取材してきたわけではないんです。神戸出身ですので、阪神・淡路大震災を経て、日本で初めて環境防災科を設置した兵庫県立舞子高校が大川小学校の視察に来たことがあり、その取材程度だったんですね。ただ、遺族の方たちが石巻市と宮城県を相手に裁判を起こした際、原告団の弁護を引き受けた吉岡和弘弁護士とは別の事件と知り合っていて、2020年夏に、電話がかかってきました。

映画の中でも触れていますが、裁判を起こしたことで、金目当てではないのかと理不尽な批判が一部から起き、遺族の方たちに脅迫事件が起きた時期になります。大川小学校の裁判は、勝つことが目的じゃなくて、 裁判に勝ってからが、何が起きたかの検証に向けてのスタートを切るということが目的で始めたことなんです。それが世の中にうまく伝わらず、脅迫事件以降、ご遺族の皆さんがちょっと下を向いてるような気がすると吉岡弁護士が言うんですね。このまま何もアクションを起こさなければ、ただ勝って、終わってしまう気がすると。

自分は弁護士なので、本を書いたり、講演で話す活動はできるかもしれないけれど、遺族の方にはそういう機会がない。だから、映像で遺族の方たちの思いや、裁判の目的や意義を伝えて、残すことができないんだろうか、という相談でした」

もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】_5
© 飯 考行

親が闘ったのは亡くなった子どものため。言い換えれば子どもたちが闘った数年ではないか。

──なるほど、この作品は時系列に沿って構成されていますが、前半は寺田監督が撮った映像ではなく、ご家族が記録された映像を託され、編集されたものなんですね。ただ、そこも信頼感がないと映像は貸してもらえないですよね。

「当初、遺族の方は映画製作に関しては、あまり賛同する感じではなかったんですね。お話を聞いていく中でも、吉岡弁護士から、私自身が、遺族の方たちの信頼を得ないと始まらないんじゃないかと言われたこともあります。

ただ、結果から言うと、大川小学校の遺族の方たちの原告団は、吉岡弁護士と齋藤雅弘弁護士のたったふたりだけで引き受けられているのですが、このお二人と遺族の方の信頼関係と言いますか、絆に関してはすごく強固なものがあるんですよ。だから、僕が一から関係性を作る必要はなく、その輪の中にすっと入れていただく形でした。

実際、大川小学校の保護者の方たちには、震災直後から信頼関係を築いて、ずっとお付き合いをされている新聞記者の方や、ジャーナリストがいるんですけど、話を聞くと、震災直後、お子さんを探しているところから一緒に長靴を履いて、泥まみれの現場を共に歩いたという。話す方も、取材する方も、お互い言葉にならないことが多々あったと聞いていますが、僕はその方たちと違って、共有する時間や記憶がないので、違う形の参加となりました」

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© 只野 英昭

──そのちょっと引いた視線で、状況を分析して、冷静に整理された作品だと思いました。冒頭に、お子さんの遺体を見つけたときの文章が出てきますが、あまりにも痛ましい記述なので、一回目の試写の時、テロップだけなのに、その状況を映像として見たと記憶していて、二度目に見た時、音声もないことに驚きました。これは観客の感受性のキャパシティを考え、あえて、情報を削ぐ形をとられたと受け取っていいでしょうか?

「あそこは朗読しようかどうか、最後までちょっと悩んだんですけど、最終的にはテロップだけにしました。今回、音声ガイド付きのバージョンを制作しましたが、そちらでは朗読しているんです。朗読にしてしまうと、感情が付加されて、見ている方の感情に訴えすぎるかなと。

ただ、完成した作品を見た時、ある原告遺族の方が、『この映画は親たちが主人公になっていますね』と。『でも、主人公はあくまでも子どもたちであるべきだ。その子どもっていうのはもちろん生前の姿もあるし、津波に呑まれていって、土に埋もれている姿でもある』と。私たちはそういう子どもの姿を主役として知ってもらいたいんだ』という話もありました」

──それは途轍もなく覚悟のある言葉ですね……。こちらはつらくてもここまでさらけ出して見せるから、皆さんも知ってほしいっていう。でも、これが現実ですという。

「子どもたちを主人公にという想いは確かにそうですが、やはり僕は今回は親たちの闘いを知ってもらいたい。なぜかというと、親たちが闘ったのは、自分の子どものために闘ったわけですよね。言い換えてみれば、それは子どもたちが闘ったことでもあるんじゃないかと」