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体育授業のイメージは「失礼シマース」?

日本の小学校から中学校においては、全員が体育の授業を受けることになっています。つまり、日本の学校教育を受けてきた人は漏れなく、体育の授業を経験しているということです。

このことが示唆するように、「体育ぎらい」はやはり体育の授業から生み出されていると考えられます。それもそのはずで、体育の授業を経験したことのない「体育ぎらい」というのは、ちょっと(まったく?)想像できないわけです。このように言うと、当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。

ここで考えてみたいことは、みなさんが経験してきた体育の授業とは一体何を指しているのか、という点です。もう少し具体的に言うと、その「イメージ」は、実はみんなバラバラなのではないか、ということです。具体例を挙げて、このことを確認してみましょう。

たとえば、みなさんは中学校の体育の授業で、授業開始の挨拶のあと、「失礼シマース」と言いながら体育座りをしたことがありますか。頭に「?」が浮かんだ人もいれば、「やってた!」と思い出した人もいるかもしれません。

私の経験上、大学生のおよそ半数は、そのような体育の授業を経験してきています。ちなみに、体育座りをする際に「失礼シマース」と言うかどうかは、地域によって異なるというよりは、学校や先生によって異なっているようです。

この「失礼シマース」と言うか言わないかという、小さな一点を見ても明らかなように、私たちが受けてきた体育の授業は、実際には非常に多様で、むしろ同じ授業はほとんどないと言ってもよいかもしれません。

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このことは、「体育ぎらい」を考えるための重要なヒントになります。なぜなら、その多様さを知っておくことは、みなさん自身の体育授業の経験から、少し距離をとって考えることに役立つからです。

この「失礼シマース」の例は、もう一つのことを示唆してもいます。それは、体育の授業における小さな出来事が「体育ぎらい」にとっては大きな意味を持っている可能性があるということです。

たとえば、「失礼シマース」と大きな声で言うことに違和感を持っていた人が、もしそう言わなくてもよい体育の授業を受けていたとしたら、その人は「体育ぎらい」にならなかったかもしれません。つまり、ほんの些細なことがきっかけとなって、「体育ぎらい」になるかどうかが決まってしまう可能性があるということです。そうだとすると、そのような一見些細に見える事柄にこそ、「体育ぎらい」を考えるためのヒントが隠されているのかもしれません。