“曖昧な状態に耐える”
というのが人生のテーマの一つ

五月に『鈍色幻視行』、六月には『夜果つるところ』と、長編小説が立て続けに刊行される恩田陸さん。『鈍色幻視行』は二〇〇七年から集英社WEB文芸RENZABUROで連載が始まり、一時中断後に二〇一三年から「すばる」で再開して二〇二二年に終了。『夜果つるところ』は『鈍色幻視行』の連載中断中の二〇一〇年に「小説すばる」で連載が始まり、二〇一一年に完結しました。何を隠そう、『夜果つるところ』は『鈍色幻視行』の作中作。密接にリンクした作品だからこそ、二ヶ月連続で出版されることになったのです。
『夜果つるところ』は過去に三度も映像化が進行したものの、そのたびに関係者が死亡し、一度も完成したことがなく“呪われた作品”とされている小説。『鈍色幻視行』はその謎に興味を覚え、これを題材に作品を書いてみたいという思いに駆られた作家が、関係者の勢揃いする場として計画された船旅に参加し、その謎を解明しようとする様子を描いています。恩田陸さんが二つの小説を立ち上げた出発点、なぜこのような作中作構成になったのか、実際の船旅取材で得た材料をどう活かしたのかなど、小説世界を形作ってきた道のりやそこに込めた思いについて伺いました。

聞き手・構成=綿貫あかね/撮影=神ノ川智早

“曖昧な状態に耐える”というのが人生のテーマの一つ 2か月連続刊行!『鈍色幻視行』『夜果つるところ』恩田陸インタビュー_1
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この二作品は『遊廓の少年』へのオマージュ

―― 『鈍色幻視行』の連載が始まったのは十六年も前です。

 かなり時間が経っているんですよね。だからこの小説を書くきっかけが何だったのか、やや忘れかけていたのですが、先日ようやく思い出しました。以前、辻中剛という作家の『遊廓の少年』を面白く読んだのですが、その本には「今村昌平監督映画化を断念!」という帯が巻いてあったんです。なぜ断念したのかはわからずじまいなのですが、その惹句が帯になっているところに目を惹かれました。今回の二つの作品は、この本をモデルにしたところがあります。『遊廓の少年』へのオマージュが『夜果つるところ』で、それを映画化しようとして断念したというエピソードが『鈍色幻視行』になった、というかたちです。

―― 『鈍色幻視行』の連載の中断中に『夜果つるところ』が書かれました。その間には何があったのでしょうか。

 作中作というのは一度やってみたかった構成でした。『鈍色幻視行』の第五章には、『夜果つるところ』の第一章と第二章がそのまますっぽりと収まっています。この二作品は同時進行させるつもりで取り掛かったのですが、『鈍色幻視行』の第五章として『夜果つるところ』の冒頭を書いているときに、これは先に『夜果つるところ』を完成させた方がいいのでは、という気持ちになりました。そこで『鈍色幻視行』の連載は一旦中断して『夜果つるところ』に集中し、完成させてから連載を再開させました。
 これまで作中作に触れたことはあったのですが、一つの作品の中に独立した別の作品を丸ごと関係させるというのは未体験でした。今回は本格的にメタフィクションをやってみたい、というチャレンジが実を結びました。

―― 『鈍色幻視行』は、主に作家の蕗谷梢と、再婚した夫の雅春が語り手となって進む物語です。『夜果つるところ』の著者である飯合梓はカルト的な人気作家で、しかもこの作品を上梓したのち消息不明に。その謎多き人物について調べるために、梢は梓に関係する者が集まる船に乗り込みます。旅をお膳立てした雅春も、梓の熱狂的ファンである従姉妹とともに乗船しますが、彼は自死した元妻が二度目の映画化の際に脚本を手掛けていたことを、梢には秘密にしている。そんな謎が謎を呼ぶ状況で、船という密室での謎解きが始まります。

 この小説を書くもう一つの動機は、船旅をしてみたかったから、というやや不純な気持ちもありました。当時取材のために、年末の忙しいタイミングに二週間の日程で担当編集者と船に乗りました。出発の二日前までは徹夜状態。神戸から出航するので初めは新幹線に乗ったのですが、私があまりにバタバタしているので、東京駅の新幹線ホームで、担当編集者が心配して真っ青な顔で待っていたのを覚えています。
 物語に出てくる航路はそのときと同じで、中国のアモイやベトナムのハロン湾を巡るコース。当時まだ船内は衛星回線で、船のメールアドレスはあるのですが、外洋に出てしばらくすると通じなくなる。だからつながるギリギリまで各所とメールでやりとりしていましたね。上陸している時間は案外と短く、ほぼ毎日船の中にいるので、本当に密室状態でした。

創作することにいまだに強い憧れがある

―― 船に集められた関係者は、雅春の従姉妹で漫画家の真鍋綾実と詩織、最初の映画化の際の助監督である角替正、その妻で俳優の清水桂子、作品の文庫化を担当した編集者の島崎四郎、その妻で女性誌編集者の和歌子、二度目の映画化を試みたプロデューサーの進藤洋介、大御所映画評論家の武井京太郎など、個性的な面々が揃います。それぞれのキャラクターはどのように造形していったのですか?

 これが、書き進めていると不思議とどんどん出てくるんですよ。この人を登場させようと事前に考えることはなくて、キャラクターが勝手に登場してくる感じ。この作品で好きだったのは、武井京太郎の恋人のQちゃんです。

―― 関係者はほぼ全員が何かの創作者です。『鈍色幻視行』は、船に関係者を集めて謎を解く、という一見古典的な密室ミステリのような顔をしていますが、創作者たち全員のヒューマンドラマともいえます。もの作りに携わる人の物語を書くというのは、どのような意味があったのでしょうか。

 作中には映画制作者や漫画家とさまざまな創作者が出てきて、結局虚構を作るとはどういうことなのか、という話になっています。雅春や武井京太郎が「真実があるのは、虚構の中だけだ」と言うシーンがありますが、これは私の実感するところでもありますね。
 また、創作するということに、いまだにものすごく憧れの感情があって、自分がプロの書き手になった実感があまりないんです。ものを作るとはどういうことなのかは常にいろいろ考えていますが、今回は振り返ってみると、その発露の仕方について書いてみたかったんだと思います。

―― 前半、船上のウエルカム・パーティでの顔合わせのシーンは、何かが起こるのではと思わせる古典ミステリでは定番の場面。『夜果つるところ』の映像化のうち、一、二度目の際に何が起こったのかが語られます。各証言を擦り合わせつつ、作品が引き起こす“呪い”とは何か、飯合梓とはどんな人物だったのかを探っていく。また、雅春の元妻がなぜ自ら命を絶ったのかという謎もあります。ミステリ的要素で読者を引っ張っていく展開で、さらに可読性も高くどんどん読ませます。

 隔絶された場所で関係者が一人ずつ発言するというのは、とても好きなシチュエーションです。でもこれは狭義のミステリではなく、何を謎と感じるのかという話でもある。それは私がいつも興味を感じている部分です。謎を巡る話は昔から好きで、以前はミステリ・ロマンというジャンルがありましたが、そういう雰囲気を目指してみました。

―― 作中にはアガサ・クリスティーの『鏡は横にひび割れて』など、小説や映画の引用がたくさん出てきます。取り上げられている作品のファンはたまらないし、未読の読者も「読んでみたい」、「観てみたい」と思わせる仕掛けで、これも恩田さんの作品の魅力の一つです。

『鏡は横にひび割れて』については、ネタバレしているかもしれないけれど、よく知られる古典だからいいかなと思いました。あの作品は動機が恐ろしく、今でも強いインパクトを残しています。クリスティー、恐るべし。詩織が話していた、女が手を振る描写の頻出するミラン・クンデラの小説は『不滅』ですね。これらは私が影響を受け、記憶を作っているものでもあるので、書いておきたいという気持ちがありました。

人生とは曖昧さに耐えながら営むもの

―― 謎が少しずつ解けていくなかで、実はその謎が人間の単なる思い込みや勘違いといったことが重なり合い、虚構のように仕立て上げられていたことがだんだんわかってきます。人が思う謎や疑惑、恐怖を感じるものは、意外とそのように人が自然と作り出しているのかもしれません。

 梢が「みんな、どこかに真実があると思ってる。それも、卵の殻を剝くみたいに何かを剝がしたら、その下に、つるっとした実体のある、動かしがたい『真実』があると思ってる」けれど、「真実って一枚岩じゃないし、綺麗な形もしていない」と言っています。真実は人それぞれ違っていて、一つの真実はその人の考えた真実でしかないものです。
 現実社会でも、あるときから白か黒か、敵か味方かはっきりしろという二元論的思考がより叫ばれるようになっています。でも人生というのは大体がグレーでできていて、自己か他者のどちらの目で見ているか、でしかない。だからグレーの状態、つまり“曖昧な状態に耐える”というのが、私の人生のテーマの一つでもあるんです。タイトルの“鈍色”は、グレーという曖昧な状態を表した、ともいえます。

―― 梢も、真実なんてパレードで降ってくる紙吹雪みたいなもので、綺麗なまとまりのある実体じゃない、と言っています。雅春が褒めているように、この紙吹雪の比喩は素敵でした。“曖昧な状態に耐える”というのは十九世紀の詩人のジョン・キーツが記述し、今ケアの現場や文学の世界などでよく耳にするネガティブ・ケイパビリティと同義。二元論がはびこる今日に、まさに求められている言葉です。

 以前、鴻上尚史さんがおっしゃっていたことがあります。役者によっては最初の舞台がうまくいかないとすぐに諦めてしまうけれど、それはよくない。人生は百点か〇点かではない。大体平均点すれすれで生きているのが人生なんだ、と。それを聞いてそのとおりだなと思いました。曖昧で、すかっとしない、ぱっとしないところで何とかぎりぎりでやっていくのが人生。『鈍色幻視行』は、そういう私自身がずっと持っているテーマの一つについて書いたともいえます。

―― この“曖昧な状態に耐える”という思想が物語に通底しているのは、最初から意識していたのでしょうか。

 そういうわけではありません。書き終わってみないと自分でも何を考えて書いていたのかはわからないんです。最後になって、ようやくそういうことだったんだと納得感が湧いてくる。今回の作品では、みんなで曖昧さに耐えて生きていこうというのが最終的なメッセージだったのではないかなと。後付けのように見えてしまいますが。

―― そういう意味でいうと、雅春の元妻は曖昧さとは正反対の完璧主義者だったから、この世に居られなくなった、ということになりませんか?

 雅春の妄想かもしれないし、生きている人の自己満足にすぎないともいえますが、彼女が少し自分の弱さを認められたのではないか、と最後に推測ができた瞬間に、彼は救いを感じたのではないでしょうか。