翻訳家の柴田元幸氏がかねてから惹かれていたシルヴィア・プラスの短篇を八篇選んで訳した作品集『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』(本邦初訳三篇を含む)。表題作は没後五十年以上を経て発見され、二〇一九年に全米でも大きな話題となった。
プラスの創作、特に十九歳のときニューヨークで過ごした、“ガラスの覆いに閉じ込められたような”ひと夏の情景から始まる自伝的長篇『ベル・ジャー』(一九六三)を愛読する作家・漫画家の小林エリカ氏がこの短篇集や、対談の前に収録されている、こちらも日本初訳の「ザ・シャドー」を読んで、訳者の柴田元幸氏とプラスの魅力について語り合った。
構成/長瀬海
現在の「生きづらさ」との接点
小林 シルヴィア・プラスに関しては、昔、長篇『ベル・ジャー』を読んだときの衝撃がとにかく凄まじかったんですね。あの体験をよく覚えていたから、今回、柴田さんの翻訳でプラスが読めるって聞いて、わくわくしていました。ただ、一方で、プラスと柴田さんがどう結びつくのか気にもなりました。個人的な印象になってしまうのですけど、プラスと柴田さんの組み合わせは意外というか、どこか少し離れている気がしていたので。でも、最初の作品「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」を読んだときにふっと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出して。柴田さんと、古川日出男さん、管啓次郎さん、小島ケイタニーラブさんたちが朗読劇『銀河鉄道の夜』をなさっていたなって。そのことを思い出したら、意外と直線的に繋がって、なるほどなって勝手に腑に落ちたんです。
柴田 あ、そうですか。よかったです。
小林 私は『ベル・ジャー』が大好きなんですが、プラスの短篇ははじめてのものも多くて。この短篇集は、彼女のエッセンスがぎゅっと一つになっていて、それを柴田さんの翻訳で読めるのが何とも幸福な体験だったということをまずお伝えしなくちゃって思っていました。柴田さんは、なぜ今回、プラスを翻訳なさったのですか?
柴田 おっしゃる通り、『ベル・ジャー』がインパクトの強い作品であることは間違いありません。ただ、短篇には長篇にないような味わいがあることも確かで、それを日本の読者にも知ってもらいたいと思ったんですが、僕がプラスを翻訳することがどこまで許されるのか、実はまだよくわからないんです。お前なんかにプラスの何がわかるんだって言われると、言葉に詰まる。
小林 どんなふうにですか?
柴田 まず僕は女性ではないし、例えばプラスの自殺衝動に反応できるわけでもない。大学の授業で僕は、登場人物を外から見て裁くんじゃなくて、まずはその人の身になってみることから始めた方が建設的に読めるんじゃないかとよく言っていたんですが、シルヴィア・プラスの場合には、そう簡単にこの人の身にはなれない。というか、この人の身になって読むというのはすごく覚悟が要ることだと常々考えていました。特に長篇の場合はそうですよね。
プラスの長篇や詩には、彼女自身のことが書かれていることが多い。だから、そこに書かれている「自分」というのが僕の「自分」と相当違うので、なかなか入っていくのが難しい。ただ、短篇だとかなり違っていて、プラスはそこで他人とか世界とか、「自分」の外を見ようとしている。これだったら語り手、あるいは書き手の身になることもできるかなと。
小林 なるほど。確かに彼女自身のことをすべて理解しようとするのは難しいですよね。
柴田 ええ。ただ、生きづらさという言葉が広く使われるようになった現在の世の中で、プラスの作品は以前より身近に感じられるようになっているんじゃないか。だから僕みたいな人間、つまりプラスの門外漢にも開かれていいんじゃないかとは思いました。
そもそも文学って他人になってみるためのツールなので、男が女性の文学をわかっちゃいけないなんてことはないと思うけれど、僕自身、一九八〇年代から翻訳を始めて、二〇一〇年ぐらいまでは、女性作家の作品は立ち入ってはいけない領分のように思っていました。あるいはイギリスの作家は自分の専門じゃないからやるべきじゃない、とかね。でも、当事者じゃないと書いちゃいけない、訳しちゃいけないみたいな空気は嫌なんですよね。だから逆に、当事者じゃなくても翻訳していいんじゃないかっていう気になってきたし、好きなものはなんでも翻訳しようと今では思っています。そもそも日本人がアメリカ文学を訳してるところから、もう当事者じゃないんだよね。
小林 柴田さんがそういった逡巡をされた末に、この短篇集の翻訳を手掛けられたっていうのは、なるほどと思うのと同時に、素晴らしいお考えだと感じます。私も作家として活動しているなかで、当事者性について考えることが多々あります。私は戦争を経験していないし、“放射能”にまつわることを書くときも同様です。戦争のことが、“放射能”のことの何がお前なんかにわかるのかっていつか誰かに言われるんじゃないかって悩みながら書いてきました。でも、民話を採訪されている小野和子さんや被災地の声を掬い取られている瀬尾夏美さんのお仕事を拝見していると、部外者であるからこそ見えてくるものもあり、声を聞いて伝えるということの覚悟を思うようになりました。
それは翻訳にも言えるのかもしれないと、今お話を聞いてはじめて気がつきました。立場が違うからこそ見えてくるものもあるかもしれない。シルヴィア・プラスという小説家に、私自身、すごく熱い気持ちで共感しながら読んできました。女として生きることの苦しさや生きづらさを彼女がきちんと言葉にしてくれたことは、私にとって本当に支えになりましたし、今なお共感する女の人たちもすごく多いと思う。けれど、その苦しさや悔しさを他の性の人もまた理解しようとすることができる、というのが小説の素晴らしさだし、実際翻訳をとおしてそれを実践するというのは凄いことだと思う。
柴田 よかったです。もちろん、訳すと決めるのはあくまでも対象に惹かれることが大前提なんですけれど。
小林 柴田さんがおっしゃった、現在の世界の生きづらさとの接点というお話には目を開かされました。やっぱり柴田さんの訳でこの短篇を読むことができたのが嬉しいし、プラスとはなんとなく距離を感じてしまうような人にも読んでほしいと思います。
柴田 この訳書がその役割を果たせれば嬉しいですね。
小林 あとがきで書かれていますけれど、冷戦下の社会の苦しみと、抑圧を受けてきた女性という個人の苦悩が繫がって書かれている、というのはこの短篇集を読むとよりはっきりとわかります。もちろん『ベル・ジャー』でも同じことを感じたはずですが、今回、もっとクリアになった気がして、新しいプラス像が発見できた気がします。
嘘をつかない物語
柴田 『ベル・ジャー』という作品は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の女性版とも見られると思うんです。つまり、カウンターカルチャーが一九六〇年代後半に登場するとともに、若者が生きるための選択肢も増えるんだけど、『ベル・ジャー』と『キャッチャー~』はそれ以前の、男の子や女の子に与えられた役割がすごく限定されていた時代の若者の物語として二つとも読めるんじゃないかなと。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、はっきりとは書かれていないけどホールデンは最後、精神を病んで病院に入っているし、『ベル・ジャー』のエスターも入院することになる。共通点は多くて、二つ並べてみると見えてくるものがあると思う。ただ、もちろん違いもあって、肉体的な痛みの感覚などは『ベル・ジャー』の方が生々しくて、エスターの痛みが行間から伝わってきます。
小林 すごく面白いです。若者のバイブルって意味では確かに似ているところがあるのかも。私自身、『ベル・ジャー』は、なんでこんなに私の痛みをわかってくれるんだろうって衝撃を受けて、バイブルのように読んだ経験があります。だからこそそれを書いたプラス本人が最後に自殺してしまうのは、とても辛くて……。憤りのようなものがずっとあったんですけど。
柴田 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』との相違点のほうをもっと考えた方が良いかもしれない。例えば、ホールデンには、もしかしたらそれは幻に過ぎないのかもしれないけど、一応、拠り所はある。妹がいて、死んだ弟がいて、彼女たちが体現しているものにしがみつくことができる。でも、『ベル・ジャー』の主人公には何もない。それが苦しいですね。
小林 それとやはり肉体的なひりひりとした暴力的な痛みですよね。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は私にとってはもっとクールで洗練された痛みというか。まあどちらの痛みがいいとかそういうわけではないのですが。
今回の作品集で言えば、「十五ドルのイーグル」や「五十九番目の熊」にも肉体的な感触を伴う痛みが克明に描かれていて、肌感覚への訴え方が凄まじい。実際に登場人物が痛みを感じている描写だけでなく、会話一つにも肉体的な痛みが込められています。
柴田 だから、時々、社会的他者を表現するときにやや差別的とも感じられる言い方になったりするけれど、それはプラスが自分とは違う人々の持つものに生々しく反応していることの表われだと思います。そのことと小林さんのおっしゃった肉体的な痛みの描写の根元は同じなんじゃないかな。感度の良さのようなものを持っているから、自分とは異なる人間の「醜さ」にも強く反応する。
小林 そうした「醜さ」は他人事ではなくて、社会のなかで自分自身が持っていたものだって書き方をするから驚かされるんです。外の世界をここまで見て書かなきゃいけないんだと。例えば、「ブロッサム・ストリートの娘たち」は最後、語り手の非常にドライな言葉で終わります。皮肉といえば皮肉だし、痛々しくもあるんだけど、切実に共感できる。この人はきれいごとや嘘なしに世界を見ていて、そんな世界の見方を私たちにも教えてくれる小説家なんだなって。
柴田 そこが僕にとってプラスの作品を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とは別の意味で自分のこととして受け止められる理由なんでしょうね。
小林 作家自身の世界の見方や、物語るという本質的な部分に共感できるというような。
柴田 そうですね。先ほど小林さんが「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」を読んで『銀河鉄道の夜』を思い出したっておっしゃいましたけど、言われてみれば、『銀河鉄道の夜』はジョバンニ以外、みんな死者ですよね。「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」も汽車に乗る話ですが、第九王国に向かっている人々はある意味では死者であるわけです。そのなかでメアリという少女は一人、私は死なない、死んでたまるかと決める。メアリは建設的なジョバンニなのかもしれない(笑)。
小林 本当ですね(笑)。私のなかでは二つの作品がふっと繋がりました。両作とも、人を傷つけたり、自分も傷つけられたりといった、加害や被害、あるいは良心の呵責というものに真正面から向き合っていて、それでもなおこの世界で生き続けることに逡巡する人たちの物語なのかもしれないな、と。鉄道というメタファーも、そう考えると両方の作品において、どこか切実なものとして選ばれている気がします。勝手な読み方かもしれませんが。
柴田 いえ、とても面白いです。しかしこの作品、シルヴィア・プラスが大学在学中に創作の授業で書いたものなんですけど、先生はこれにAマイナスをつけたんです。どうしてAじゃないんだって思っちゃいますよね。
小林 厳しい! 私は今、その先生よりずっと先の未来を生きているから、そう思ってしまうのかもしれないけれど。作中でこの汽車に乗ったのは自分の意思じゃないんだって主張するメアリに対して放たれる、「あなたは受け容れた。あなたは反抗しなかったのよ」って言葉が余計苦しく感じられる。プラスの生涯の結末を知って読むとそれがなお重い。
柴田 その反面、さきほど僕は『ベル・ジャー』のエスターには誰も拠り所となる人がいなかったと言いましたが、この短篇集にはときどき、そばにいてくれる人がいるんですよね。今おっしゃった「あなたは受け容れた。あなたは反抗しなかったのよ」という言葉を突きつける「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」の女性も、実は主人公をよき場所に導こうとしています。「ブロッサム・ストリートの娘たち」の「あたし」が勤め先の病院で仲良くなったドティなども、その奔放な態度で、「こうふるまえばいいんだ」という範を主人公に示している。実は『ベル・ジャー』でも最初、ドリーンという自由闊達な女性がそうした役割を担っているんです。でも、彼女はすぐ消えてしまう。結局のところシルヴィア・プラスは、誰かが答えを持ってくれているという希望みたいなものをいつも持てたわけではなさそうです。
「待ち」のしんどさ
小林 今回の短篇集に収められた物語はどれも死の感覚が濃厚ですよね。特に後ろに行けば行くほど、だんだんと迫ってくる感じを受けます。
柴田 末尾に「みなこの世にない人たち」を持ってきたのは、最後で死の世界に入っていくような並びにしたかったんです。
小林 なるほど。「これでいいのだスーツ」でさえ、一見、明るい童話的なフォルムの物語なのに、不思議と暗さを感じさせる。
柴田 それはどのあたりですか?
小林 マックスの家族のもとに、一着のスーツが届きますよね。お父さんから順番に着ていくんだけど、誰もしっくりこない。みんなが口々に自分は「カラシ色のスーツを着る歳じゃない」とかって言って、着るのをやめる。そんな場面が続くと、どこかどんよりとしたムードになる。それと、これは柴田さんがあとがきで指摘されていますけど、試着する段階で母親だけスーツを着ることから除外されている。母親はスーツを直そうと奮闘しては毎回、やっぱりいらないと断られていますよね。それも悲しいし、シビアな世界がほんのりうかがえます。
柴田 しかも、みんな試着しては、これは僕に似合わない、じゃなくて、これを着たら周りにどう思われるだろう、って考えるでしょう。会社でこんなスーツ着てる人いない、みたいに。
小林 そう、それって『ベル・ジャー』にも実は繋がることなんじゃないかと、読み返して思いました。こうしたらこう周りに思われるかも、誰にどう見られるかを常に考えなくてはいけない息苦しさが、繰り返し繰り返し、しつこいほどに描かれている。
自分から積極的に選びとることで恋も仕事もかわいさも獲得していきたいはずなのに、誰かに認められたり見出されたり選ばれて初めてそれを保証される、そんな世界が描かれている。だから、懸命に努力してもそれが報われなかったり、選ばれたとしても気持ちがすれ違う。そもそも自分自身が選ぶ側には立てないという不幸。
柴田 実は、僕も今日の対談前に『ベル・ジャー』を読み直したんですけど、そのことを一番強く感じました。
小林 常にかわいく見られなきゃ、とか、洗練されているように見られなきゃ、賢く見られなきゃ、経験豊富なように思われたい、という強迫観念がある。女の子同士もいつも比較対象になってしまう。そこから逃れられない苦しさ。あの時代、特に女性であるがゆえに選ばれるのを待たなきゃいけないという「待ち」のしんどさとそこへの憤りが綴られていると思うんです。それは「これでいいのだスーツ」にも通じるものなんじゃないかな、と。
柴田 なるほど、面白いですね。
小林 周りの人、特に力や地位のある男性たちにこう思われたら「待ち」から外されるんじゃないか、でも本当はもっと自分で積極的に選びたい、という矛盾と息苦しさ。それは現代の日本でもありますよね。
柴田 現代でも女性は特に大変だと思います。もちろんそれは男性も無縁なことじゃなくて、外からの評価をすべて取り払って、自分で「これでいいのだ」って確信できることって、普段、僕たちが生きていてそんなに多くないんじゃないですかね。
小林 私たちに必要なのは「これでいいのだ」ですね。
柴田 そうそう。これはバカボンのパパから借りたんですけど(笑)。
小林 名訳ですね!
柴田 「これでいいのだ」も難しくて、下手をすると排他的な発言になってしまう。誰も傷つけずに自分で確信を持って「これでいいのだ」って言えることって、実は限られているんじゃないかなと今回、改めて思いました。
小林 確かに、ここに描かれているのは排他的な「これでいいのだ」とは違うものですね。バカボンのパパ的な、別の次元から自分自身を全肯定できる「これでいいのだ」がある。
柴田 だから結論としては、我々に必要なのはバカボンのパパになることである(笑)。
小林 プラスもバカボンのパパになれれば、もしかしたらもっと楽になれたかもしれないし、生き延びられたのかもしれないと、思わずにいられないですね。
柴田 シルヴィア・プラスは極貧家庭に育ったわけじゃないんですが、お父さんが早くに亡くなっています。それで奨学金や助成金をもらって、何とかやりたい道を進んでいった。作家になってからも、作品を出版社に送ってアクセプトされた/リジェクトされた、と毎回一喜一憂しています。他人の評価なんか無視して達観していればいい、なんて空気じゃないんですね。
小林 それもやっぱり常に他人から選ばれないと、評価がないと生きられないってことに直結しますね。その切実さがプラスの作品には書かれているんですね。『ベル・ジャー』の中でも男の子にあの女の子は選ばれるけれど自分は選ばれない、あるいは選ばれても気が乗らない、という場面や状況が綿密な筆致で描かれている。そういうことの連続がとにかく辛い。
柴田 開き直って、私はそういう価値観とは無縁な場所で生きますからって言いたくても、そんな場所はたぶんどこにもない。
小林 どこにもないというのはすごく苦しいですね。とはいえ、この短篇集の作品は、苛烈な状況のなかに救いがあったりして、そうしたアンビバレントさがうまく編み込まれているものが多いような気もします。「ブロッサム・ストリートの娘たち」もラストは社会の側から見ると皮肉な結末なんだけど、でもそれが真実でもあって、読んでいてすっきりもするけど、複雑な気持ちにもなる。そもそも舞台が病院で、女の子たちが一緒に働いている情景が描かれているのがいいですね。
柴田 この女の子たちのチーム感は救いになっていると思います。一方で「ジョニー・パニックと夢聖書」の方はそれがないからけっこうきつい。語り手は一人で孤立しています。「ブロッサム・ストリートの娘たち」には暗い面と明るい面が同居していて、リアリズムの枠のなかでうまく表現されている気がします。
小林 女の子たちのやりとりがスラップスティックみたいで、いい味を出していますね。