ファゼンダ・ダ・セーハ
サンパウロの日本移民史料館に残る『組合第一回移民原簿 若狭丸 大正六年四月二十日神戸発 大正六年六月十五日サントス着』によれば、フサノたちが送り込まれたのはサンパウロから北東に鉄道で四百キロあまり、さらに別の鉄道で東に八十キロほど入ったファゼンダ・ダ・セーハだった。標高一千メートルあまりの高地にある。
福岡県七家族、福島県と熊本県各三家族の十三家族からなる総勢五十四人。男二十六人、女二十二人に子供六人が含まれていた。
フサノたちがあてがわれた棟割り長屋風の移民小屋は、開かれて百年以上が経った歴史のある農園だけあって、外見だけは赤瓦に白い漆喰壁だったが、家具はなく、寝具は土間に敷かれた枯れ草だけ。枯れ草の匂いは刈り入れた後の稲藁を思い出させた。
ファゼンダは、絵の具をたっぷり塗りつけた原色のキャンバスのようだった。臙脂に近いテラ・ローシャと呼ばれる赤土の上に、碁盤の目に整然と植えられた濃緑色のコーヒーの樹海。目をこらすと赤く熟したコーヒー豆が鈴なりになっている。
ローシャとはポルトガル語で紫色のことだ。玄武岩と輝緑岩が風化してできたテラ・ローシャはコーヒー栽培に適した肥えた土壌だが、粒子が細かく、雨に濡れると泥濘に、晴れた日には土埃になる。ファゼンダの中を行き交う牛車や馬車は下半分が赤く染まっていた。
ファゼンダの朝は早い。起床は午前四時。シーノという鐘の音でたたき起こされる。朝食代わりのコーヒーを飲み終える六時前、またシーノが鳴って、移民たちはコーヒー園に出かける。
集合場所から先は、農場主ファゼンデイロにコーヒー園の運営を任されている監督が、馬上でブジーナという角笛を吹きながら作業場所に数十人単位で移民たちを誘導していく。奴隷制時代の名残で、手には鞭、腰にはピストル。
昼食は本部の鐘と監督のブジーナを合図に午前九時にとる。時計で労働時間を管理するわけではないから、自然、農作業は日没まで続くことになる。