「一度でいいから佐古選手の名を呼びたい」と直談判

亡き父のブドウ畑をバスケットコートに。DJコバタクの「フィールド・オブ・ドリームス」_3

豊川市出身のコバタクさんは中学でバスケット部に入った。小学生の時に連載が始まった『スラムダンク』は欠かさず読んでいた。

「なんか運動した方がいいかなあと思ってなんとなく入部したんです」

中1の夏、1992年バルセロナオリンピックで初めて編成された、NBA現役スターの米国代表「ドリームチーム」に衝撃を受けた。

「そのタイミングで『バスケット・ボーイ』って映画を見たんです。往年の名選手、ピート・マラビッチの少年時代の物語で、寝る時もボールを持って、自転車に乗りながらドリブルしてて。サッカーの『キャプテン翼』みたいで。それで俺もこうする!ってなったんです」

本人曰く「バスケ狂いで下手くそ」な中学生は、夜な夜な、市内の学校開放で練習している大人に加わった。進学した地元の公立高校は「練習試合に4人しか来ないような弱いバスケ部だった」。

しかし、雑誌やテレビで情報を集めて、バスケ以外は考えることがないくらいの中高6年間を過ごし、「やるなら本場へ」と米国の大学への進学を決めた。

「自分のそれまでの人生、バスケに真剣になっていなかったらなにも始まっていなかった」

オレゴン州の大学に入り、街の中にあるコートでバスケットに加わってみた。

「アハハ…これは無理だなって、すぐに現実をみた。めちゃくちゃうまいと思った相手が高校ではスタメンに入れなかったとか。それで初めてバスケット以外のものへ視野が広がったんです」

大学内ラジオ局のDJに挑戦したのがきっかけとなり、卒業後、帰国して名古屋のラジオ局ZIP-FMのナビゲーターになった。

2006年、愛知県刈谷市を拠点にする実業団チーム、アイシン精機のホーム試合で進行や会場の盛り上げをするホームコートMCをした。当時は「ミスターバスケットボール」と言われていた佐古賢一選手(現在はBリーグ北海道ヘッドコーチ)が所属していた。

「中学の時から大好きな佐古さんが近くにいるぞと思ったら居ても立ってもいられなくなって、チームに電話して『一度でいいから名前を呼ばせてもらっていいですか』ってお願いしたんです。先方からしたら、いきなりなに言ってるか分かんねえって話ですよね(笑)。

でも、当時のバスケット部長さんが会ってくださって。ラジオのDJが何をしにきたんだ?と思ったでしょうね。バスケ狂いが、ノーギャラでいいです、『ケンイチー!サーコー!』って叫ばせてほしいって来たわけですから(笑)。

そしたら『1試合できそうだからやっていいよ』と言っていただいて。感激しましたよ。当日は名前呼んで、鳥肌が立って、あーよかった、夢が叶ったって」