女たちの言葉が浮かびあがらせる
ハーンの面影

 イオニア海に浮かぶレフカダ島(現在はギリシャ領)で一八五〇年に生まれたラフカディオ・ハーンが、いつしか西へ西へと海を渡り、四十歳直前に来日、一八九六年に英国籍を棄てて日本に帰化したことは、皆さんもご存じだろう。こうして彼は「小泉八雲」となった。
 来日後のハーンに関しては、良人を亡くした妻のセツが遠戚にあたる三成重敬を聴き手として語った「回想」が何度か英訳されて出まわり、日本でも日本語版がハーンの教え子の田部隆次が書いた評伝『小泉八雲』に「思ひ出の記」の題で収録されて以来、広く愛され、読まれてきた。
 この前史を踏まえつつ、ベトナム生まれの英語作家、モニク・トゥルンが、セツが八雲の面影に向かって語りかけるという装いで「再話」を試みた。それが本作である。
 本人を前にしての語りだから、良人をめぐる証言というより、しんみりとした親密な語り口調になっている。生前のハーンはセツから「八雲」の名で呼ばれるのを嫌ったようだが、ここでのセツは「八雲よ」と声をかけ力強い。
 そして、本作の何よりの面白さは、セツによる回想に先立って、ハーンの生母(ローザ・カシマチ)の息子への呼びかけ、そしてハーンが文章家としての修業を積んだオハイオ州シンシナティ時代に事実婚の関係を結んでいた下宿の料理番の女性(アリシア)が新聞記者に向かってした打ち明け話が、ひとつひとつ色合いを変えながら巧みに配置されていることにある。
 たがいに面識のない三人の女(語る言語も異なる)に共通するのは、彼女らがそれぞれのやり方でハーンを愛し、その食欲だけでなく、おとぎ話をせがむ子供っぽさにも快く応じてやったという点だ。
 ガートルード・スタインのパリでの生活を、その料理番を務めたベトナム人のコックの眼を通して描いた『ブック・オブ・ソルト』で彗星のように登場したモニクであればこそ、ハーンがどのような欲望の主であったかをさぐりあてる能力にもたけていた。
 今まで知られなかったハーンが、女たちの語りを通して新しく生まれかわる。

オリジナルサイトで読む

かくも甘き果実
モニク・トゥルン
モニク・トゥルン『かくも甘き果実』を西成彦さんが読む。「女たちの言葉が浮かびあがらせるハーンの面影」_a
2022年4月5日発売
2,640円(税込)
四六判/320ページ
ISBN:978-4-08-773517-8
「小泉八雲」となった男ラフカディオ・ハーンを愛した、3人の女たち

あなたを語ることは、あなたを蘇らせること――
甘い思い出と苦い記憶を語る彼女たちの「声」が、時を超えて響きわたる。

“ここではないどこか”を求めつづけ、最後には日本で「移民作家・小泉八雲」となった男ラフカディオ・ハーン。彼の人生に深く関わった3人の女性が、胸に秘めた長年の思いを語りだす。
生みの母ローザ・アントニア・カシマチは、1854年、故郷への帰路の途中アイリッシュ海を渡る船上で、あとに残してきた我が子の未来を思いながら。
最初の妻アリシア・フォーリーは、夫との別離を乗り越えたのち、1906年のシンシナティで、ジャーナリストの取材を受けながら。
2番目の妻小泉セツは、永遠の別れのあと、1909年の東京で、亡き夫に呼びかけながら。

ジョン・ドス・パソス賞受賞の注目作家が、女性たちの胸の内を繊細かつ鮮やかに描いた話題作
Honya Club amazon 楽天ブックス セブンネット TSUTAYA honto 紀伊国屋書店 ヨドバシ・ドット・コム e-hon HMV&BOOKS