「劇映画は間違っていたとしても何かを提示すべき」

――舞台を大阪の堺市にしたのは、何か理由があったのでしょうか。

堺市が行政として撮影に好意的でしたし、自転車でシナリオハンティングをしたときも商店街などの感じがとても良かったのです。そして何より、あの土地がいろいろなものが交わり合う接点であったということ。

中世の頃から、貿易の拠点でしたね。三国ヶ丘という地名があるように泉州と河内と摂津のちょうど交わるところ。貿易の拠点でもあり、古墳も飛鳥から堺に移っていった。いろんな交点になる。規模もコンパクトでいろんなものが詰まっている。交点であった土地ということでここは面白いな、というのがきっかけですね。

――堺は、自由貿易、自由自治の町、黄金の日々の舞台でもありましたね。のんさんは関西生まれですが、堺の言葉(もしくは泉州弁)というのはネイティブじゃないじゃないですか?その辺の細かい指導とかされたりしたんでしょうか。

そうですね。彼女は兵庫県の中部(神河町)ですから、大阪の南の堺とは、アクセントや語尾や言い回しなどがやはりちょっと違います。それで方言テープを作ってやっていきました。

のんさんと安田さん、希と大希。『平行と垂直』というのは、良いタイトルだなと思っていたので冒頭のシーンはその兄と妹のコントラストを意識しましたね。

穏やかな表情で並んで歩く希と大貴(映画『平行と垂直』より)©2026「平行と垂直」製作委員会
穏やかな表情で並んで歩く希と大貴(映画『平行と垂直』より)©2026「平行と垂直」製作委員会

――コントラストはトイレットペーパーのビジュアルからも伝わってきましたが、一方で自然な兄妹の空気感も二人がいるところで醸し出されていました。

映画とかドラマでASDの主人公が出てくると、コミュニケーションは苦手だけれどもこんな特殊な能力があるという設定が多いですよね。例えば数字にめちゃくちゃ強いとか、とんでもなく記憶力がいいとか。

そしてそれは、彼には障がいがあるけれど、こんなに役に立ちます、つまるところ、こんな生産性がありますという価値観に回収されてしまう。

そうなると「美女と野獣」の物語じゃないですが、魔法が解けたらイケメンでした、というオチで「人間の価値は美醜ではない」というテーゼが台無しになる、みたいな……。

――小林監督の作品は、テーマをテーマとして投げ出すのではなく自分の中で消化していてそれを提示しているように受けられます。それは本作も同様ですね。

そうですね。僕は、劇映画に関してオープンエンドの幅が大きい作品は好きじゃないんです。そこはやはり間違っていたとしても何か提示しろよ、って思ってしまう。

もちろん観客が考える余地や余白といったレベルのものならいいと思いますけど、最近その幅が大きすぎる気がして、責任放棄に思えるんです、どれとは言いませんけど。