「差別的な人に限って、それは差別ではないという言い方をする」
――この映画は、実際にASD当事者や関係者の方がご覧になったと思いますが、そういう方々の感想というのはどのようなものだったのでしょうか。
ASDを単に消費したみたいに思われないか、ちょっとドキドキしていましたけど、当事者と家族の方からはすごくいい反応をもらえているので、ちょっとほっとしているところです。『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』という本を書かれた東田直樹さんは見てすぐにコメントを下さって「私の気持ちを表してくれました」と言われてそれは嬉しかったです。
勿論、だからと言ってこれがASDの全てを代表したり唯一の正解だ、などと驕るつもりはなく大貴という架空の人物における表象でしかないとも思っています。
――兄妹が生活をしていた中で、妹の希が恋人から結婚を申し込まれて、話が転がりだします。障がい者が血縁にいる者を家族として受容できるのかどうか。この点で、恋人の母、つまり義理の母となる女性が、兄妹に対してある種の偏見を持ちながら「あなたたちと私たちは同じ家族になれるのか」を問うてくる。
これは勝手な拝察かもしれませんけど、大は国家から小は家族という単位に至るまで今の日本の排外的な空気に対する必然のある絵テーマではないかと思いました。
そうですね。以前、公認心理士の信田さよ子さんの著書、『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』を読んでいてそれも背景で意識していました。家族は国家のミニチュアに陥りやすく、DVやモラハラなど「家族」はある意味で最も暴力的な存在とも言える。
異なるものをどう受け入れるか、受け止めるか、それをどう映像に出せるか、を常に考えていました。恋人のお母さんは、『これは差別するつもりとかそういうんじゃないけどね』と、予防線を張っている。家族になる、家族になるためにね、っていう。でも実質それこそが差別なわけで、その段階でもう家族と言う内と外を作ってしまう。
そういう差別的なことをする人に限って、これは差別ではないという言い方をするのが興味深いです。潜在的な罪悪感の表れなのかもしれませんが。













