ロフトが遠くなっていく

というのも、もう何年も前から、店には足が向かなくなっていたからだ。社長をはじめとして社員は優秀で働き者、各店舗の業績も好調。私が指示を出さなくても会社は回っていた。でもそれが面白くない。

ライブハウスとは自由な表現の場であり、そこに集う者たちの活発なコミュニケーションの場でもある。離れたところからスケジュール表と収益表を眺めているだけでは、肝心な部分は見えてこないのだ。

だから私は視察をする。現場の空気を肌で確かめるために。50年もこの仕事を続けていると、フロアに足を踏み入れた瞬間、全部わかってしまう。なにか起こりそうな「場」なのか、ただのコンクリートの箱なのか。

「あ、平野さん!」。顔なじみの出演者は、私を見ると喜ぶ。しかし店の人間は(あ、ヒラノだ……)という目をする。私の小言が始まるからだ。

行く先々で似たような思いをすると足が遠のく。店の人間は私が怖いのかもしれないが、私だって怖くて店に行けなくなるのだ。ロフトは私の手を離れてしまったのか? 私の役目は終わったのか?

会長を辞めてからロフトとの距離はさらに遠くなり、事務所のある西新宿にも行かなくなった。コロナで死ぬのは嫌なので、通っていたジムも解約し、電車に乗るのもやめた。私は世田谷の自宅に引きこもるようになった。

なんだか急に力がなくなってしまって、これから自分に起こることといえば、病気や認知症などのろくでもないことばかりな気がする。「生きてゆくことに意味を持たせよう」なんて考えられない。

電話が鳴らない。台所には空のビール缶や焼酎のボトルが転がっている。

この数ヶ月、銭湯と深夜の散歩以外、誰にも会っていない。

会社からの連絡も途絶えた。

そして妻とは半年口をきいていない。

写真はイメージです 写真/Shutterstock
写真はイメージです 写真/Shutterstock

妻の住む家に帰る

世田谷の自宅は3階建てで、1階に妻が住み、2階はラウンジと賃貸物件、3階には私が住んでいるが、フロアにはトイレもキッチンもベッドルームもある。3階へは別階段があるので、家に帰っても妻と顔を合わせずに済む。これまでもほとんど口をきくことはなかったから、ひとつ屋根の下で暮らしながらも、2人で別の家に住んでいたようなものだ。

私には3人子供がいるが、1番上は前の妻との子で、下の2人は2度目に結婚した今の妻との間に生まれた。ここまで書いていいのかはわからないけれど、最後の子供が生まれた私が40歳の頃以来、妻とは全くのセックスレスだ。

みんな私が悪いのだ。妻の名誉のために白状する。結婚して34年、そのうちの半分近くも私は家にいなかった。

仕事、浮気、同棲、長旅。

気づけば私は76歳になっていた。

家を出ては帰ってまた妻と暮らすが、うまくいかない。同じパターンを30年繰り返してきた。

でも今回は事情が違う。私は会社を辞めて、家に引きこもっている。別の階で暮らして顔を合わせないとはいえ、ひとつ屋根の下に住む2人だ。半年も口をきかずにいると、息が詰まりそうになる。

この先、この女とずっと暮らすことになるのか。

ひさしぶりに1階まで降りていき、妻に切り出した。

「なあ、お願いだから別れてくれないか」

彼女が首を縦に振らないと知りつつ、私は頭を下げた。