ゼロ・グラビティとミュージカル映画
1981年、MTVが開局する。24時間MVを流し続けるこのケーブル局の誕生によって、ポップ・ミュージックは聴くものから視みるものへと変わり始めた。
そして、この変化は視覚込みで表現者としてはじめて完成するマイケルにとって、諦めかけた夢の実現を意味していた。彼にとってMVとは、オルタナティヴな銀幕だったのである。
その最初の宣言となったのが、1983年発表の「ビリー・ジーン」だった。マイケルは、この映像に自ら崇拝する映画へのオマージュを持ち込んでいる。
光るタイルの演出は『ウィズ』に登場する魔法の道〝イエロー・ブリック・ロード〟を思わせ、夜の街を舞台とした設定はフレッド・アステアが『バンド・ワゴン』で披露した「ダンシング・イン・ザ・ダーク」へのオマージュだった。
黒いジャケット、短いパンツ、白い靴下というシルエット、そして静止と急加速を切り替える鋭いダンスには、ボブ・フォッシーが振り付けを担当した『星の王子さま』でフォッシー自身が演じた〝ヘビのダンス〟からの影響が色濃く見える。
その結果、「ビリー・ジーン」は 〝映像込みで楽曲を楽しむ〟新しいポップ体験を生み出した。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。
マイケルは「スリラー」によって、その表現をさらに先へ進める。ジョン・ランディスを監督に迎えて制作された約14分のこの作品は、もはや一本の短編映画だった。
冒頭には台詞付きのドラマパートが設けられ、特殊メイクによる変身シーン、群舞、オチに至るまで、すべてが映画の文法で作られている。マイケルは制作費の一部を自腹で持つほど、この作品に懸かけていた。
なぜなら「スリラー」で彼が目指したのは、MVというメディアそのものの映画化だったからだ。その狙いは成功する。「スリラー」以降、高額予算を投じたMVが一般化し、誰が監督したのかが注目されるようになった。
しかし、より重要なのは、マイケルのMVが豪華監督陣による作品として語られる一方で、その実態が当時の映画とは大きく異なっていたということだ。
たしかに彼のMVの監督には、前述のランディスをはじめ、マーティン・スコセッシ、スパイク・リー、ジョン・シングルトン、デヴィッド・フィンチャー、マーク・ロマネクといった錚々たる名前が並ぶ。これだけを見れば、監督陣の才能によって作品が成立していたようにも思える。
しかし実際にはこれらの作品は、往年のフレッド・アステア作品がそうであったように、あくまでマイケル主導のもと、コンセプトや演出、振り付けのアイデアが出されていた。このため 〝マイケル・ジャクソン作品〟として統一された世界観を持っている。
監督や制作年が変わっても、同じモチーフ、同じ身体表現、そして何より同じテーマが、形を変えながら何度も表れるのだ。だからこそ彼の映像群を並べてみると、そこにはいくつかの路線が浮かび上がってくるのである。
まず、第一に挙げられるのが、古き良きハリウッドやミュージカル映画への憧れを前面に押し出した“ハリウッド・オマージュ路線”である。マイケルにとってこの路線は、もっとも素直な表現だったと考えられる。
なぜなら前述の通り、彼が最初に憧れたスター像そのものが、クラシカルなエンターテイナーだったからだ。この傾向が最初に明確に表れたのが、前述の「ビリー・ジーン」だが、その傾向がさらに推し進められたのが「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」だろう。
この作品も夜の街を舞台とし、男女の駆け引きを軸に展開する点で、往年のミュージカル映画的な構造を色濃く持っている。
そしてこの路線の完成形と言えるのが「スムーズ・クリミナル」である。白いスーツ、フェドラ帽、煙の立ち込める暗いクラブ――その美術設計は往年のギャング映画そのものだが、そこへ加わる集団ダンスは、ボブ・フォッシーが監督した『スイート・チャリティー』の「リッチマンズ・フラッグ」の振り付けを強く想起させる。
だがマイケルはここで単に昔の映画を再現せず、その様式を分解し、再編集してみせる。象徴的なのが、45度前傾の〝ゼロ・グラビティ〟だ。床に縛られているはずの肉体が、重力から解放されたかのように舞う――ミュージカル映画スターの人間離れした優雅さを、彼はハイテク技術でさらに先へと推し進めたのである。
(集英社クオータリー『kotoba』2026年夏号より一部抜粋)













