ハイエクの呪縛を解き放つ民主的計画

──今回の本では、最大の論敵としてフリードリヒ・ハイエクの思想を詳細に検討しています。ハイエクに標的を絞ったのはなぜですか。

新自由主義はもう終わりだということは、保守派の佐伯啓思さんや松原隆一郎さん、左派の松尾匡さんなど、様々な人がすでに指摘しています。しかし、多くの人は「新自由主義はダメだけど、ハイエクが言うように計画しすぎて市場を否定するのも良くないから、いい感じの資本主義にしよう」というマイルドな話で止まってしまう。ハイエクの自生的秩序は、保守派にとっても左派にとっても、いい塩梅の話なんです。

私は、資本主義そのものを問題視するためには、ハイエクまで批判しなければならないと思いました。ハイエクは「計画か市場か」という二択を突きつけ、「計画は隷属への道であり全体主義につながる」と、自生的な市場を擁護しました。そして現実の世界でも、ソ連の計画経済は失敗に終わった。その結果として、私たちは、市場以外の想像力を働かせることができなくなってしまいました。

ところが、コロナ禍では市場にブレーキをかけ、国家が介入しなければ命を守れませんでした。市場だけではうまくいかなくなっているのに、いまだにオルタナティブを示せないのは、この「ハイエクの呪縛」のせいです。実際には、資本主義の下でも様々な計画が行われてきましたし、ソ連型ではない社会主義的計画も存在します。ハイエクが見えなくしてしまった「新しい計画の道」を開くことが、この本の大きな狙いの一つです。

──それに対して、ハイエクと同世代のオットー・ノイラートを「計画経済」という点から再評価しています。

ノイラートは論理実証主義のウィーン学団で活動し、ピクトグラム(絵文字)の元祖のようなものを考案した非常に幅広い思想家・実践家です。

彼は1920年代の「赤いウィーン」と呼ばれる時代に、貧困や失業、疫病が蔓延する中で公営住宅を増やすなど、社会民主党のマルクス主義者たちとともに「計画」という概念を洗練させていきました。彼は、価格にすべてを還元してしまう市場が、外部の情報や制度の問題を見えなくしてしまうことを問題視し、現実世界の多元的な価値を保ったまま議論し、多様な参加者の意見を反映させていくことこそが民主主義だと主張しました。

ところが、同時代にウィーンにいたハイエクはこれが気に食わず、のちに一連の計画批判論を展開してノイラートをこてんぱんにしてしまいました。その結果、計画という概念は切り捨てられてしまったんです。

現在、英語圏ではノイラートを再評価し、官僚的なソ連型ノルマ主義ではなく、デジタル技術や暗黙知を活かした「民主的計画」を実現しようとする議論が盛り上がっています。その機運はアレクサンドリア・オカシオ=コルテスなど、アメリカの社会主義を掲げる人たちにも影響を与えています。

中国が計画的にAIや高速鉄道網をつくり上げているのに対し、アメリカは産業が空洞化しブルシット・ジョブ(無意味な仕事)ばかりになっていることへの批判として、「民主的計画をもっとやれば、再エネも増やせるしアフォーダブルな住宅もつくれる」という議論が出ているんです。

一番危険なのは、私たちがぼーっとして国家が計画をしないままでいると、結局GAFAMなどのテクノ資本が我々の代わりに計算し、非民主的な計画を進めてしまうことです。AIが私たちの買うものや投資先、採用まで決めるようになれば、アメリカの利潤最大化に合わせたトップダウンの計画が関与しないところで行われてしまいます。だからこそ、私たちが主体的に参加し、社会の重要事項を反映した「民主的計画」を意識的に導入する構想をオープンに議論しなければなりません。