謙虚さが従順さに置き換わる
私たちは幼い頃から目上の者に従うよう促されて育つ。学生時代は先輩や教師に素直に従うよう教え込まれる。社会に出てからは上司に従うよう叩き込まれる。従わない者は、とんでもない者、悪影響を与える者、として叱られる。
とりわけ過疎地域では従順であることが尊ばれる。目上の者に逆らうのは恥ずかしい行為とされる。まわりからも「従っているだけでよい」「素直に頷くだけでよい」と諭される。そのような経験を繰り返しているうちに意見が言えなくなる。
鹿児島弁に「議を言うな」という方言がある。「ぎ」とは議論や反論といった意味だ。かつては「議論を尽くしたあとは決定に従え」という意味だった。
近年は「目上の者に逆らうな」といった意味で使われる。いつ頃からか、謙虚さが、従順さに置き換わった。
この従順さは、目上の者の思考に依存し、自らの思考を放棄する。スポーツの分野では優秀な指導者に巡り合うことで、トップアスリートになることがある。目上の者が優秀であれば、従うのも一つの手段だ。しかし、多くの場合において、従順さは都合のよい道具になる。
たとえば、滅私奉公を褒め称えて従順な労働者をつくる。前例踏襲に従うよう促して既得権益の囲い込みを図る。従順さを道徳化することで、論理的に説明する技術や知識を身につける必要がなくなる。
過疎地域の若者たちが首都圏でぶち当たる壁が、この従順さだ。目上の者からの助言がないと何をしてよいのかわからない。
自分で考えて行動できるようになるまで数年かかる。
それでも20歳前後であれば決して遅くはない。それは数年で取り戻せる遅れでもある。従順さをいち早く捨てて、謙虚さを持って目標に向かって進んでほしい。
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