改正より校正すべし
ところが、校正は表向き、目には見えない。通常、校正者の名前は表に出ないし、文章のどこをどう直したという痕跡は完全に消されている。はじめから誤りがなかったかのように。まるで著者がひとりで書いたかのように見える。
それゆえ校正者が居ても居なくても世の中は変わらないように思われるのだが、ネットの普及によって彼らの不在が露呈している。
目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。校正者の不在によって誤字脱字が世にあふれかえっているのだ。送られてくるメールは漢字変換ミスのオンパレードで、おそらくは読み返されていないのだろう。
ネット上の書き込みもひとりよがりを超えた罵詈雑言や事実関係を無視したデマの垂れ流し。いっそのこと学校では「国語」ではなく「校正」を教えるべきではないかと思うくらいなのである。
教えるといえば、国立印刷局発行の『官報』には驚かされた。その巻末には毎日のように、正誤表が掲載されている。
連日、法律の条文などの「誤り」が発表されているのである。国会で一字一句審議されて可決成立したはずの条文などに「原稿誤り」があったとして、官報でさらりと訂正しているのだ。
さらに2021年3月の衆参議院議院運営委員会理事会では政府から国会に提出された法案の3分の1(23法案と1条約)に134カ所ものミスがあったと報告された。「カナダ内にあるカナダ軍隊の施設」(「防衛省設置法の改正法案」)とすべきところを「カナダ内にある英国軍隊の施設」と間違えたり、「海上保安庁長官」(「デジタル庁関連法案」)を「海上保安長長官」と誤記したり、「を」(「産業競争力強化法の改正法案」)を「w、」と誤変換したり……。
おそらく改正に気をとられて校正を怠ったのだろう。ミスだらけの法案が審議され、誤った条文が公布され、それを官報で校正する。こうなると最終的に立法を担っているのは国立印刷局ではないだろうか。
文化の衰退。
私は切にそう感じている。そもそも「文化」とは「文による感化」(『学研 漢和大字典』学習研究社 昭和53年 以下同)を意味する。
「武力や刑罰などの権力を用いず」に、文によって「人民を導くこと」。戦争を抑止するのも文化であり、文化が衰退すると暴力がのさばるわけで、世の平和のためにも私たちが心がけるべきは文の校正なのだ。
校正せよ。
世間にそう訴えたいのだが、実務としての校正作業を私はよく知らなかった。
これほどお世話になっているにもかかわらず、校正者の方々とは面識すらなかった。
今さらながら自分が恩知らずであることにも気がつき、とり急ぎ私は日頃の感謝を伝えるべく、校正者のもとへ出向くことにしたのである。