チームプレーに徹した進次郎の球児時代
小泉家の教育方針はエリート教育というよりは、自主性にまかせたものだったようだ。兄・孝太郎も進次郎も、関東学院大学の付属校である関東学院六浦小学校に入学し、同中学・高校へと進学をしている。進次郎は兄を追うように野球を始め、甲子園を目指す野球少年として青春時代を過ごした。
進次郎の野球部時代の証言をしてくれたのは、同校野球部顧問・小貫直俊氏(注:2010年に取材)だ。
「彼が2年生のとき、夏の大会で初めて公式戦のスタメンで起用しました。そのとき彼はフォアボールを選んだのです。試合後に『よく我慢してチームプレーをした』と誉めたことを記憶しています。高校生はたいてい打って目立ってやろうと思うもの。彼は真逆で、堅実で地道なタイプだったのでビックリしました」
進次郎が高校球児だった時代、神奈川県は怪物・松坂大輔が君臨していた。松坂と横浜高校でバッテリーを組んだ上地雄輔(タレント)は横須賀出身であり、考太郎と上地雄輔は「3歳の頃から一緒」という幼馴染。
上地は進次郎とも仲がよく、「進次郎の歴代彼女を知っている」と上地は公言したこともあった。また、上地の弟と進次郎はともに野球をしたという間柄だった。さらには、上地の父親である上地克明は政治家であり、小泉家ともゆかりが深く、現在は横須賀市長を務めている。
進次郎を擁する関東学院六浦高は決して強豪校といえるような学校ではなかった。
ところが進次郎の時代にメキメキと実力をつけ、練習試合では松坂のいた横浜高校に勝ったこともあった。1番バッターでセカンドを守った進次郎は三年生で副キャプテンを務めた。
関東学院六浦高校は、激戦区といわれる神奈川で、1999年の春の大会でベスト8、夏の大会でベスト16という、同校にとって「10年に一回あるかないか」(野球部OB)の好成績をおさめた。
野球部関係者に話を聞くと、センスは兄・孝太郎のほうが良かったのではないかという声は多い。孝太郎は長打力がありクリーンナップタイプを打ち、チームの要となる存在だった。一方で進次郎はセンター返しを中心とするチームバッティングを自ら行なうような、バイプレーヤータイプだったという。
選手としてはチームプレイヤーだった進次郎だが、政治家の息子であるという経歴もあり目立つ存在だった。
「僕は何度か『政治家を継ぐのはお前しかいないんじゃないか』という話もしたんですけど、進次郎は『いやー、父の仕事を見ると大変なのはわかるので。僕には務まりません』と言っていた」(前出・小貫氏)
このころの進次郎には、政治家志向がなかったのだ。その考えを一変させたのが、兄・孝太郎の存在だった。