スリスリスリ
ある日の深夜2時ごろ、小腹が空いたのでなか卯に行くと、客は僕一人で、例のおじさん店員も一人、店内で二人きりになった。和風牛丼の食券を買って席に着き、おじさんがそれを回収して、軽快な手さばきで作って持って来てくれた。
テーブルの紅生姜入れを開け、二つまみくらいの紅生姜を肉の上に乗っけて、ガッと牛肉とご飯をかきこむと、幸せな味が口に広がった。
ところが二口くらい食べたところで、突然店内が真っ暗になった。……停電だ。目の前の牛丼が見えなくなり、手探りで丼を掴む。
おじさんの姿も見えなくなり、かなりテンパっていると、暗闇から声がした。
「申し訳ありません、今電気をつけますので、少々お待ちください」
おじさんがスリスリと壁を触りながら移動する音が聞こえて来た。
停電なのに電気つくのかなぁ?と思って外を見ると、道の反対側にある街灯はついていた。おそらくブレーカーが落ちただけだとわかり、少しホッとする。
だんだん目が慣れて来たのか、自分の牛丼が暗闇にうっすら滲み出て来た。暗闇で食べようと思ったけれど、どうせなら明るくなってからと、しばらく待つ。
1分……2分………3分くらい経っただろうか?暗闇からおじさんの焦りが伝わってくる。
あれ?……スリスリスリ……あ〜…………はぁ………どこだ?……スリスリスリスリ…………ああ、何でこんな…………スリスリ………
ここで長く働いているはずのおじさんだが、こんな事件は初めてなのだということがわかった。
それからまた5分が過ぎた。頑張っているおじさんを前にしてこんなことを気にするのは申し訳ないのだが、僕の牛丼はどんどん冷めていっている。
目が慣れ過ぎて、もうかなりはっきり牛丼が見えるようになったからとうとう食べようと決めたとき、スリスリスリという音が近づいて来て、おじさんが僕に言い放った。
「すみません! ブレーカー、どこにあるか知りませんか?」
「え??」
「いや、ちょっとわからなくて困ってるんです」
おじさんは僕に助けを求めて来たのだ。でも正直、おじさんにわからないことが僕にわかるはずもない。
確かに、僕はなか卯に誰よりも通っている自信はある。けれど、バックヤードのことは全く知らない。
でも、店員さんが客に助けを求めてくるなんて、本当によっぽどのことだし、おじさんも相当な覚悟で僕を頼って来たのだと思った。
この人ならわかるかもしれない! と、とても小さな可能性に賭けるしかないほど追い詰められている。
僕が一方的にレンタルビデオの店員並みに信頼を置いていたおじさんが、僕に対して、とても信頼を置いていたことに、この瞬間気づいた。
「わかりました」
このまま牛丼を食べて帰ることもできたが、もしこれで僕が帰ってしまったら、おじさんは真っ暗闇の中、一人でブレーカーを探さなければならない。ブレーカーが見つからなかったら深夜の売り上げがゼロになってしまう。僕は暗闇でスッと立ち上がった。