ウーマンリブの時流に乗ったWTA創設

話は少々、昔話の色を帯びる。
時は1970年――。アメリカやヨーロッパを中心に、女性解放運動華やかなりし頃にまで遡る。
当時開催されていた多くのテニス大会では、男女の賞金格差が激しかった。特に、アメリカで開催された、とある男女共催大会では、女子の賞金は男子のそれの10分の1以下だったのだ。

その事態の改善を求め、時のテニス界の女王ビリー・ジーン・キングは、大会のボイコットを表明する。同時にビリー・ジーン・キングは、同じ志を持つ8名の選手とともに女子選手会を立ち上げ、独自にスポンサーを募りツアー興行を始めた。これが、WTAツアーの始まりの物語である。
ちなみに、WTAの初代冠スポンサーを務めたのは、フィリップ・モリス社である。「自由な女性向け」を旗印に、女性解放運動の機運に乗り1968年にリリースされたタバコ銘柄である、バージニア・スリム(現在のバージニア・エス)の名で第一回選手権が行われた。

このビリー・ジーン・キングを旗手とした女子テニスの活動は、時勢の追い風も受け加速したのだろう。1973年、全米オープンは男女優勝賞金の同額に踏み切る。その動きに他のグランドスラムも追随し、2007年のウィンブルドンをもって、全ての四大大会で男女賞金同額が実現した。

積極的にメッセージを発信する女子テニスの系譜

このようにWTAは、その始まりからして、社会運動的な素地を内包している。だからこそ同組織は、社会的な問題に関しては常に、迅速な反応を示してきた。

最近では、元政府高官から性的関係を迫られたことを告白した中国の元トップ選手、彭帥(ポン・シュアイ)の安否が不明であることを理由に、中国本土開催の一切のテニス大会を中止としたことも記憶に新しいだろう。
WTAにとって、中国は最大の市場だった。それにもかかわらず撤退を決意したのは、WTAの信念完遂の意味合いが大きい。

「もし、政治力のある人物によって女性の声と性的暴力が覆い隠されてしまうなら、それは女性解放を求めて設立したWTAの理念を後退させることになる」
WTAのCEOは、中国からの撤退表明の際にそのように明言している。

また選手個人でも、国連親善大使だったマリア・シャラポワらをはじめ、歴代トップ選手は社会的活動や発信を行ってきた。
これらWTAの理念とトッププレーヤーたちの動きを思えば、歴代世界ランキング1位の系譜につらなる大坂が、さまざまな発言をしてきたのも不思議なことではない。加えるなら、従来の“強く勇ましい”というアスリート像ではなく、内面の弱さや脆さをもさらけ出す大坂の姿に、多くの人々が自身を投影しているのも明らかだ。
その証左が、17の提携企業数であり、5,730万ドルの年収。35位という世界ランキングにも関わらず、市場価値ではぶっちぎりのトップを疾走している、大坂なおみの真実である。