パンクのはじまりについては諸説あるが、ごくシンプルに述べると、1970年代中頃にアメリカ・ニューヨークで誕生し、少しのちにイギリス・ロンドンへ渡って爆発。その波動があっという間に世界中へ広がったというのが、ほぼ事実に近い経緯だろう。
1976年2月、ニューヨークパンクの代表格であるラモーンズがシングル『ブリッツクリーグ・バップ』でデビュー。ロンドンでは同年10月にダムドが『ニュー・ローズ』で、そして11月に真打のセックス・ピストルズが『アナーキー・イン・ザ・UK』でデビューを果たし、パンクは一大ムーブメントへと発展していく。
そうした海外の動きを受け、日本の各都市でも先鋭的なパンクバンドが活動を開始。
HIKAGEが1977年4月に地元の名古屋で結成した、ザ・スタークラブもその一つである。当時のメディア状況を考えると、リアルタイムで伝わってくる海外の音楽情報は限定的だったはずだが、HIKAGEはどのようにして先鋭的な新しいロック=パンクと出逢ったのだろうか。
「バンドをやる気になったのは、ラモーンズのおかげです。1976年の末に日本で発売されたレコード(ファーストアルバム『RAMONES』。本国では1976年4月発売)を聴いてみたら、ラモーンズの曲はすごくいいのに、ギターソロがなかった。当時はハードロックの時代だったから、バンドをやるなら素晴らしいギターテクニックが必要だと考えていたんだけど、ラモーンズを聴いて思わず、『これならできる』となったんです。いま考えるとラモーンズの演奏ももちろんうまいんだけど。リズムの良さとかそういうことは、まだよく分かってなかったんでね」
“初期衝動”を保ち続ける男、ザ・スタークラブのHIKAGEが人生を捧げた「パンク」と憧れのヒーローたち
元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。有頂天のKERA、ラフィンノーズのチャーミー、ニューロティカのATSUSHIに続く4人目のゲストはザ・スタークラブのHIKAGE。1977年のバンド結成から、今年でなんと47年目! 名古屋、そして日本のパンクシーンのパイオニアとして現在も熱い活動を続けるHIKAGEの貴重なロングインタビューだ。全4回にわたって、HIKAGEの現在、過去、そして未来に迫る。(全4回の1回目)
「バンドをやる気になったのはラモーンズのおかげ」

1977年4月に名古屋で結成したザ・スタークラブ。結成47年目を迎える今もHIKAGEのパンク・スピリットは変わらない。(撮影/木村琢也)
ラモーンズに感化され、ザ・スタークラブを結成したHIKAGEだが、パンクの音源自体がまだあまり日本に入ってこない時代。右も左も分からずただ、「パンクをやる」という意気込みしかなかったという。
そして間もなく、ラジオから流れてきたある曲を聴いて、HIKAGEはさらなる衝撃を受けた。
「1977年の夏です、ラジオで初めてピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』を聴いたのは。サウンドはハードロックに近いように感じたけど、曲はラモーンズと同様、俺の好きなスリーコードがバーっときてる感じ。そして何より驚いたのはジョニー・ロットンの歌い方でした。ラモーンズは好きだったけど、淡々としたジョーイの歌は、俺としてはあまり面白くなかった。だから、ラモーンズの音にピストルズの歌というのが、自分にとっては本当に衝撃で、(パンクバンドを始める)初期衝動になったのかなと思います」
文字情報でしか知らなかったピストルズを初めて見聞きし受けた衝撃
HIKAGEがセックス・ピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』をラジオで聴いたのは、偶然ではなかったという。当時は情報が少なかったので、ラジオの放送予定をこまめにチェック。その日もおそらく、イギリスの最新音楽をかける番組があることを知り、ラジオをつけていたのだとか。
「ラモーンズが出たあと、ピストルズのことは『ミュージック・ライフ』のような雑誌の文字情報で知りました。すぐに喧嘩をするし、ライブは中止ばかりというとんでもないバンドだと。でも、ロンドンで何かがはじまっているらしいという認識は持ちました。
写真は載ってなかったので、髪の毛がツンツンで服はビリビリに破れ、やたらと安全ピンを刺しているという言葉だけで、想像を膨らませました。そしてラジオで曲を聴き、のちに雑誌に載ったシド・ヴィシャスの写真を見て、『わー、来た! これしかない!』と」
ニューヨークとロンドンの動きに呼応し、まさに衝き動かされるようにバンドをはじめたHIKAGE。彼が結成したザ・スタークラブは、今や日本最古級の現役パンクバンドと言っていいだろう。
単純に結成年で並べると、さらに歴の長いパンク系のバンドはあるが、海外発のパンクムーブメントにリアルタイムで触発され、その衝動でスタートしたバンドを、日本の“純パンクバンド”と呼ぶなら、ザ・スタークラブが筆頭となる。

約半世紀前に出逢い、衝撃を受けたパンクの音やスタイルについて理路整然とわかりやすく語ってくれたHIKAGE。(撮影/木村琢也)
1959年生まれのHIKAGEは、バンド結成当時18歳の大学1年生。そうしたタイミングも、パンクに染まる要因の一つとなった。
「あんなに盛んだった学生運動が、自分のまわりでは完全に消えていた。しらけた世代なんです。個人的には学生運動に憧れる気持ちが強く、すごく勉強もしました。なんであんなに熱く燃え上がれたんだろうって。でも自分たちの世代にはもう、熱くなれるものがない。そう思っていた矢先に知ったのがパンクだったんですよ。
今はパンクにもいろいろな考え方がありますが、1970年代当時は、ジョン・レノンの『イマジン』の世界、つまり“共産的な発想”というか、パンクも左寄りの考え方が美しかった。学生運動の反体制思想に近く、時代の流れで形は変わったけど、自分の世代はコレなんだなと直感的に思いました」
アラン・ドロン、ジェームズ・ディーンからビートルズへとつながった一本の線
パンクに衝撃を受けてバンドをはじめたHIKAGEだが、ロックとの出会い自体はもう少し早く、中学生時代にさかのぼる。
映画が大好きだった当時のHIKAGE少年はアラン・ドロンのファンで、「サムライ」(1967年公開)などフランスのギャング映画にスーツ姿で出演する名優に憧憬の念を抱いていた。アラン・ドロンに似ていると感じて次に好きになったのが、時代を少しさかのぼり、1950年代のアメリカで活躍した映画スター、ジェームズ・ディーンだった。
そして彼らが持つ不良っぽいイメージが、初期ビートルズへと結びついていく。
「リアルタイムではすでに解散していて、『アビイ・ロード』(1969年リリース)や『レット・イット・ビー』(1970年リリース)といった後期のアルバムが話題になっていた時期です。でも過去を掘っていくうちに、ジェームズ・ディーンのイメージが初期ビートルズのジョン・レノンに重なりました。それで、革ジャンを着て髪をリーゼントにして演っていた、ハンブルク時代のビートルズがすごく好きになったんです」
ザ・スタークラブというバンド名も実は、初期ビートルズに由来している。
ザ・ビートルズは本国イギリスでレコードデビューする前の1960年代初頭、ドイツのハンブルク巡業を頻繁におこなっており、当地にあったスタークラブというライブハウスにおける演奏はレコード化もされた。スキッフルやロックンロールを演奏していた、初期ビートルズを聴ける貴重盤として、マニアの間では有名だ。
ビートルズファンだったHIKAGEは自分のバンド名を決める際、そのライブハウスの名にあやかったのだ。
「パンクが来るまでは、革ジャンを着込んでロックンロールをやる初期ビートルズに夢中。日本のバンドでは、その延長線上にあるキャロルですね。ストーンズやイギー・ポップも好きだったけどビートルズには勝てず、次にやられたのはニューヨーク・ドールズでした。サウンド面だけですけどね。ルックスは嫌いでしたから」

「革ジャンを着て髪をリーゼントにして演っていた、ハンブルク時代のビートルズがすごく好きだった」(撮影/木村琢也)
1971年から1976年にかけてアメリカ・ニューヨークを舞台に活躍したジョニー・サンダース率いるニューヨーク・ドールズは、そのアティテュードやサウンドがのちのパンクに多大な影響を与えたバンドとして知られるが、ファッションは中性的なグラムロックのものだった。
後期ニューヨーク・ドールズのマネージャーは、のちにセックス・ピストルズをデビューさせたロンドンパンクの仕掛け人、マルコム・マクラーレンだったが、そうした今では有名な逸話もリアルタイムでは日本に伝わらず、HIKAGEの耳にも入っていなかったはずだ。
だがHIKAGEは本能的に、パンクカルチャーの本流を嗅ぎ分けていたのだろう。
のちの時代に整理された情報だけを見ると、ニューヨーク・ドールズは1970年代前半、セックス・ピストルズは1970年代後半に活躍したバンドというイメージだが、当時のHIKAGEが体感していた実情はやや違う。
「日本に来る情報は限られていたから、ニューヨーク・ドールズを聴きはじめたらすぐにパンクも来たっていうのが、当時のリアルな感じなんです。感覚としてはほんの1、2年のタイムラグ。ニューヨーク・ドールズからラモーンズ、そしてピストルズに次々と出会った1975年から1977年のことは今でもよく覚えています。それだけ、大きな衝撃だったということですね」
試行錯誤しながら模索した自分なりのパンクスタイルとは
「パンクにもいろいろなスタイルがあるけど、俺はやっぱりビートルズやキャロル、ラモーンズの流れから、シドの革ジャンに影響を受けました。
ほかのアイテムでは、クラッシュの『ロンドン・コーリング』のオフィシャル映像でいきなり大写しになるラバーソール。そういうのを見て“すげえ!”と思っても、そのころの日本ではどこにも売っていなかった。だから、自分の中でイメージが一番近かった登山靴を履いていました。
服も同じで、徐々にいろいろなものが入ってくるんですけど、最初は何もなかった。だから限られた情報を頼りに工夫して、自分でシャツを破ったり安全ピンや鎖をつけたりしてましたよ」
筆者である僕は1969年生まれだが、パンク好きになった中高生の頃、1980年代半ばにはすでにたくさんのパンクショップがあり、お金さえあれば難なくそれらしいファッションを揃えることができた。
しかし、初期パンクムーブメントを実体験しているHIKAGEは、何もない中で試行錯誤しながら自分なりのパンクスタイルを模索したのだ。DIYを旨とするパンク精神を地でいくようなその話は、僭越ながら少々うらやましかったりもする。

(撮影/木村琢也)
そんな日本のパンクのオリジネーターであるHIKAGEに、取材する側の態度としてはあまり好ましくはないと知りながら、丸投げ気味の質問をしてみた。
HIKAGEさんにとって、“パンク”とは何ですか? と。
「パンクとかロックとかという言葉が持つ響きへの憧れは永遠に変わんないけど、別に今さら、“パンクだからどうのこうの”っていうのは全然ない。そういう年齢になったということなんだろうけど、今は自分が好きか嫌いか。それ以外は、もう何もないですね。
でもパンクというのは、本当の居場所を探し、とにかく自分を今とは違う場所に持っていきたい、そして熱くなりたい――そんな思いに尽きるんです。だからすべてが満たされていて、今の場所で十分だと思っている人に、パンクは向かないんじゃないかな。
ただ、あまりにも真面目に窮屈に『パンクとはどうあるべきか』って考えると、『結局そこには何もない』という結論にぶつかってしまう。だから今は昔と比べると、もっとオープンになろうという気持ちもあります」
机上のロック史ではなく、リアルタイムでムーブメントを体験し、自分なりの“パンク”を実践してきたHIKAGEの言葉の一つ一つは重く、そして貴重だ。
文/佐藤誠二朗
【プロフィール】
ヒカゲ/1959年生まれ、愛知県名古屋市出身。
1977年、名古屋でHIKAGEを中心に結成したザ・スタークラブのヴォーカル。
現メンバーは、HIKAGE(ヴォーカル)、TORUxxx (ギター)、HIROSHI(ベース)、MASA(ドラムス)。
1977年、名古屋でHIKAGEを中心に結成。後のインディーズ・ブームに先駆けて1980年1stミニ・アルバム発表。1984年、徳間ジャパンからメジャー・デビューするまでインディーズ・チャートを独走する。
1986年、ビクターへ移籍後、2003年にスピード・スター・ミュージック、2004年にクラブ・ザ・スター・レコーズ、そしてノートレスとレーベルを移しながら、年ごとの新作発表及び全国ツアーと絶え間ない展開を現在まで続けている。2023年、バンド結成47年目を迎える今も、止まる事なく走り続ける、唯一無比の日本のパンク・ロック・バンド。
公式X(旧ツイッター):@thestarclub
公式HP:ザ・スタークラブ公式HP
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