バンドブーム全盛期でも月給は15万円。あの頃はそれで十分満足だった

世界広しといえども、誰もがこれほど簡単に接触できる“ロックスター”は、他になかなかいないのかもしれない。
ニューロティカのヴォーカリスト、“あっちゃん”ことATSUSHIは、東京・八王子市にある昭和26年創業の『藤屋菓子店』(以下、『藤屋』)店主という顔も持つ。定休日である日曜以外の毎日、色とりどりのお菓子が並べられたお店の店頭に立っているので、そこに行きさえすれば必ず、素顔のあっちゃんに会うことができるのだ。
日本武道館の客席を満杯にできる、人気ロックバンドのフロントマンであるにもかかわらず。

1980年代半ば頃、日本の音楽業界で突如湧き起こったインディーズブームは、80年代後半になると、メジャーレコード会社を巻き込んだ一大バンドブームへと発展した。シーンからは数多のバンドが出現し、当時の多くの若者たちから絶大な支持を集めた。
あっちゃんが高校の同窓生である修豚(ギター)らと1984年に結成したニューロティカは、まさにインディーズ〜バンドブームという時代の波に乗って人気を博したパンクバンドだった。

昼は街のお菓子屋さん、夜はパンクでロックな優しいピエロ。これがニューロティカ・あっちゃんの“普通の生活”_1
JR八王子駅から徒歩10分ほど。この「藤屋菓子店」で育ち、いまも拠点にしている。(撮影/木村琢也)
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しかし当時の熱狂を体験している人は意外に思うかもしれないが、バンドによる“ジャパニーズ・ドリーム”を実現したかのように見えた彼らの中で、真の経済的成功を収めた人はほんの一握りだった。ほとんどのバンドマンたちは、持ち出しばかりのインディーズ時代からしゃにむに頑張り、やっとこれから本当にバンドで食っていけそうだと思っていた矢先にブームは収束。ハシゴをはすざれてしまった。
それは、ちょうど同時代に弾けたバブルにも似た、束の間の夢のようなものだったのかもしれない。

「インディーズの頃から、僕は親がやっていたこの『藤屋』の仕事を手伝っていました。メンバーもみんなバイトをしていて、トラックの運転手をやっていたやつが多かったです。ブームが盛り上がってきた当時は、不動産屋のオヤジさんが、デスク1つでライブのブッキングをしたりする僕らの事務所の役割をやってくれました。その事務所から支給される給料は毎月たしか5万円。それが『(新宿)ロフトの3days(ライブ)をやったら10万やるぞ』とか、だんだん上がっていきましたけど、まだみんなバイトはしてました。
ライブのスケジュールがいよいよ密になってくると、バイトのシフトとの兼ね合いが難しくなってきて、『じゃあ、月15万やるからバイトは辞めてくれ』となって。嬉しかったですね。意外と少ない? そうですか? でも、バンドを始めた最初の頃は、自分たちでお金を貯めて、作ったレコードをせっせとシュリンクしていたことを考えると、バイトもしないでレコードを出せて、給料までもらえるんだから、それで十分だったんですよ。金額以上の、人生の価値のようなものを感じてたし」