ラフィンノーズのチャーミーが本音で語った、“気仙沼のおやじ”と“盟友ポン”
元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。ラフィンノーズのヴォーカル、チャーミーの物語。前回は、62歳を過ぎても年齢を全く感じさせない熱いライブで全国を回り続ける、現在の生活についてお伝えした。今回は、チャーミーを語るために欠かすことのできない存在である2人の大切な男について(全4回の2回目)。
「偶然のようですべては運命」。
父の勧めで暮らしはじめた大阪の街で出会ったもの
「17の頃、スズキのGT380というバイクに乗っていたんですけど、ある日誰かに盗まれちゃって。のちに見つかったんだけど、ぼこぼこになって捨てられていて、もう使えなくなっていたんです。それでへこんでたら、見かねたおやじが『新しいバイク買ってやるわ』って。
でも、その頃はバイクよりギターへの興味の方が強くなっていたので、『父ちゃん、もうバイクはいらないから、代わりにこっち買って』と頼みました。
今もあるのかどうかは知らないけど、当時ヤマハのカタログに載っていたレスポールのバイオリン仕上げ。当時のバイクと同じくらいの値段で、確か15万円くらいだったかな。それを買ってもらってからは、毎日毎日弾いていましたよ」
音楽を始めたきっかけについて話を向けると、チャーミーは真っ先に、父の思い出を語った。
宮城県の気仙沼市で少年時代を過ごしたチャーミーは、中学からグレはじめ、入学した高校はすぐにドロップアウトしてしまう。そして16歳で単身、家を出て都会に向かうことを決意する。その頃のチャーミーにとって、“都会”といえばまずは仙台だったが、『どうせ家を出るなら大阪へ行け』と勧めたのも父だった。東京を飛び越えて大阪だった理由は、チャーミーの親戚が住んでいたので、そこを頼ればいいと父が考えたからだ。
「音楽をやりたいから都会へ出ようと思ったんだけど、俺は気仙沼のど田舎育ちで『永ちゃんイエーイ』という感じの何も知らない不良だったから、都会ならどこでもよかった。それで、なんか知らんけどおやじの言うまま大阪へ行って、そこでハードコアに出合ってバンドをはじめるわけだから、偶然のようですべては運命だったんだと思ってます」

「たった一回の一発は、今考えると本当にいいビンタだったと思う」。父親について語るチャーミー(撮影/木村琢也)
一度は大阪に出て、いとこの内装会社の手伝いをしたが、3ヶ月で地元に返されてしまったチャーミー。もう一度、家を出ることを目指して地元でのバイトで金を貯め、父から贈られたギターを持って再び大阪に向かったのは、18歳のときだった。
そんな自由奔放な息子を見守り支えたチャーミーの父とは、どんな人だったのだろうか。
「最近つくづく思うんです。おやじは、俺とすげえ似てる。本当は俺がおやじに似てるんだろうけど。
おやじは非暴力主義者だった。でも一回だけ殴られたことがあるんです。家の物を盗んでお金に換えていたのがバレたとき、『ちょっと来い』と言われて、バチンとビンタを食らった。容赦のない一発で、『おやじのビンタは痛いなあ』と思いました。絶対に暴力を振るうような人じゃなかったおやじからの、たった一回の一発は、今考えると本当にいいビンタだったと思うんです。今ではしみじみ、『あのときはお父ちゃんありがとう』って。おやじとも、しばらく会ってないけど」
あまり良い思い出のない産みの母はすでに亡くなったが、深く感謝している父と育ての母はいまだ健在で、気仙沼で暮らしているという。
そんな両親に、自分たちのバンドのライブを見てもらったことがあるかと尋ねると、チャーミーの返答はそっけなかった。
「あったかな? 多分、おやじは一度もないですね。母親は、メジャーデビューして一関でライブをやったとき、見に来たのかも。ちょっとはっきり覚えてないです」
インディーズからメジャーへ。
解散を経て再びインディーズに戻ったラフィンのパンク魂
僕がその存在を知って虜になった1985年頃のラフィンノーズは、チャーミー(ヴォーカル)、ナオキ(ギター)、ポン(ベース)、マル(ドラムス)という体制だった。
このうち、結成時からのオリジナルメンバーはチャーミーだけだが、結成まもない1982年から参加しているベースのポンは、チャーミーとともにラフィンノーズを形作ってきた主要メンバー。チャーミーにとってはかけがえのない大事な仲間で、無二の友人であることは、ファンの目から見ても明らかだ。
だから、1989年にナオキとともにポンが脱退したときは、「ああ、これでラフィンは終わりか」と思った。その後チャーミーは新メンバーを迎えてラフィンノーズを継続させたが、1990年にはメンバーの1人が暴行事件で逮捕され、マルも脱退。
1991年にはついに解散してしまう。
ポンはラフィンノーズ脱退後、ナオキとともに関西パンクシーン出身のOi!パンクバンドCOBRAに加わり、メジャー展開して人気が高まっていた同バンドのメンバーとして、武道館のステージに立つ。
COBRAは1992年に解散したが、その後もポンは、COBRAのボーカリストYOSU-KOとともにCOW COWというハウスユニットを組むなど、充実したミュージシャンライフを送っていた。
一方のチャーミーはラフィン解散後すぐにソロアルバムをリリースしたが、音楽活動は以前より目立たなくなり、このまま表舞台から去ってしまうかのように見えた。
だが1995年、チャーミーとポンは再び意気投合し、ラフィンノーズの再始動を決意する。かつてのインタビューでチャーミーは、ラフィンノーズ再結成にあたり、「何をやってもいいんだけど、絶対にパンクロックでありたい」という意識を強く持ったと語っている。

チャーミーの横にはいつもポンがいる。(撮影/編集部)
1980年代半ばにインディーズブームを牽引し、メジャー移籍後はどんどん大きくなるフィールドで、思うままに楽しんでいるかのように見えたチャーミーだが、自分たちバンドメンバー以外の思惑がいろいろ入ってくる状況に、混乱することも多かったようだ。
再び動きはじめたラフィンノーズは、ポンが主宰する新たなレーベル「Letsrock」をベースに、ライブのブッキングからチケットやグッズの販売、CDジャケットやグッズのデザイン、ライブをする地方への移動や機材の搬入搬出などまで、すべての活動をほぼメンバーのみでおこなうという、純・インディーズ体制を築いた。
それはまるで、チャーミーとポンが大阪で出会ったばかりの頃に戻り、それを心から慈しみ、楽しんでいるかのような動きだった。
音楽性だけではなく、そうしたバンド活動にまつわる諸事の扱いも含め、新生ラフィンノーズがパンクのDIY精神を貫こうとしていたことは明らかだ。
「ポンと初めて会ったのは、19か20のときだから、もう40年以上の長い付き合いになります。それだけ長く付き合うと良い面も嫌な面も目につくけど、俺とポンって同じ方を見て同じ道を進んではいても、言うなれば“背中合わせ”の2人なんですよ。『こっちは俺が守るぜ。だから俺の後ろは、ポン、おまえが守ってくれ』みたいな。なんかそんな感じ。あいつと出会ったのは運命だと思ってるし、普通に『兄弟だな』って思う。気づけばそうなってますね。昔はそんなこと恥ずかしくて言わなかったけど、今はもう、本当にそうなんだなと思うよ」
「チャーミーが何かにハマるとバンド活動にもターボがかかる」
とポンは見抜いた
ラフィンノーズというバンドはチャーミーにとって母艦のような存在だが、たまにラフィンを離れ、個人の活動を行うこともある。
近年では、韓国のインディーズミュージックシーンに衝撃を受け、自らプロデュースして2016年に「大韓不法集会」というオムニバスアルバムを作り上げた。
このアルバムタイトルは、ラフィンファンにとっては思い入れの深い「AA Records」から1984年に発売されたオムニバス「ハードコア不法集会」の流れを汲むものだ。
元祖「ハードコア不法集会」には、AA Records主宰のラフィンノーズを筆頭に、BAWS、G.I.S.M.、COBRA、MOBS、OUTO、LIP CREAM、ZOUOといった、当時のパンク/ハードコアシーンを飾ったインディーズバンドの曲が収録されていて、そのジャンルが好きな人の間では歴史的名盤として語り継がれている。
「韓国のロックなんてまったく知らなかったけど、あるきっかけで彼らのビデオを見たら、『これ、ヤバくねえか?』となって。ハングルも全然わからないから、ビデオの画面のキャプチャーをパソコンに取り込んで翻訳してみたら、バンド名とか曲名が書いてあることがわかりました。
そんな状態から手探りでどんどん掘っていったら、本当に面白くてね。実際に現地にも行くようになってわかってきたのは、1970年代に日本を含めて世界中を席巻したパンクが、韓国にはリアルタイムでは入ってなかったということ。その代わりというか、俺が韓国のバンドの中で突出して好きなサヌリムというバンドが、セックス・ピストルズと同時期の1977年に韓国でデビューしているんです。音楽性は全然パンクじゃないんだけど、影響力という点やオリジナリティでは『これは韓国のパンクだなあ』と思って。もうこれは俺が動くしかないなと、さらにいろいろ調べ、向こうのミュージシャンとも交流を深めて作ったのが『大韓不法集会』だったんです」

40年以上の付き合いになる盟友ポンについて語るときは、自然な笑顔が多かった。(撮影/木村琢也)
チャーミーという人は、“これが面白い”と思ったものにはとことんのめり込み、身も心も捧げるように染まり切る性格だ。
そのアンテナが現在は“食”に向けられているが、その前は“韓国ミュージックシーン”に向けられていたのだ。
そうしたチャーミーの情熱は、ラフィンノーズの作品にも反映されているのだろうか。
「それは、めちゃめちゃありますね。ポンもよくこう言います。『チャーミーがなんかに興味を熱く持つときって、ラフィンもすごく良くなるんだよね』って。ポンが言うには、俺が何かにハマっているときほど、ライブなんかもターボがかかっているらしくて。
だから『おまえはそれでええねん。そういうときのおまえはめっちゃかっこええから、がんがん行けよ』って、煽られてますよ(笑)」
ドキュメンタリー「ラフィンノーズという生き方」
2011年、結成30周年時に制作・放送されたラフィンノーズ初の公式ドキュメンタリーフィルム。50歳時のチャーミー、そして当時もライブで全国を回るバンドの姿をぜひご視聴ください。
【プロフィール】
チャーミー/1961年6月21日生まれ、宮城県気仙沼市出身。
1981年12月に大阪で結成したパンクロックバンド「ラフィンノーズ」のヴォーカル。
83年12月、自ら立ち上げたインディーズ・レーベル「AA RECORES」よりファーストシングル『GET THE GLORY』をリリース。84年11月、ファーストアルバム『PUSSY FOR SALE』をリリース。85年11月、VAPよりアルバム『LAUGHIN’ NOSE』、シングル『BROKEN GENERATION』でメジャーデビューを果たすも、レコード会社の移籍、メンバーの脱退などもあり1991年に一度解散するも、1995年に再結成。以後、結成40年を超えた今も精力的なライブ活動を続けている。
その他最新情報は下記でチェックを!
公式ツイッター:@LaughinNose_
ラフィンノーズ オフィシャルHP
【撮影協力】
WONDER YOYOGI PARK
東京都渋谷区富ヶ谷1-8-7 飯島ビル2F
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