いい人と称されることは、本当にうれしいこと?

だけど、そもそも”いい人”とレッテルを貼られることは、そんなに素晴らしいことなのだろうか。

かつて雑誌MOREに在籍していたときに、読者アンケートで「言われてうれしい褒め言葉は?」という質問を実施したところ、当然というか、やはりというか、1位の回答は「かわいいね」。
そりゃそうだ。言われたらうれしいわ。大事なオンナ心だ。
けれど、2位がちょっと意外なものだった。

「感じいいね」

うーん、これにはちょっと驚いた。

もしも誰かが「志沢さんってどんな人?」と第三者にたずねて、その人が私のことを「志沢さん? ああ、感じいい人だよ」と答えたら、結構どうでもいい感を、私は感じてしまうのだ。
ほんの少し投げやりというか無関心の要素も感じるというか。

あの人いい人だよ、と言われるのはもう少し心が入っているような気もするが、なんとなくパーソナルなことを言われているのとは違うのかな、という気も少々してしまう。

人はときには言いにくいことを
言わなくてはならないときがある

人間、いろいろな人生と境遇があって、仕事をしたり家庭を持ったり子育てしたりしていると、365日360度いい人でいるなんてことは、絶対に無理だ。
それを遂行しようとすると自分へのストレスになるか、もしくはどこかで齟齬が生じておかしなことになってしまう。
時には憎まれることを承知で、部下を指導したり、子供を叱ったり、友達に苦言を呈したり…。

実際、すごく言いにくいことってある。

お箸の持ち方が変。
食べ方が汚い。
鼻毛がいつも出てる。
体臭口臭がキツイ。
姿勢が悪い。

これ、どうでもいい人のことだったら、きっと指摘しないでしょう?
こんなこと注意して、その人との関係が気まずくなったり、下手したら遺恨を残すことになるより、ちょっと見ないふり、気づかないふりをするほうが全然ラクだもの。

でも、これが自分にとって大切な人のことだったら?
例えば、配偶者、恋人、子供、親友。

自分以外に誰がこうした指摘をするんだろう?と考える。
そりゃ、言いにくいけど……実際私は言ったことがある。幸い感謝もされた。
ものすごーーく勇気と気遣いが必要だったが、そうしたことを見逃すストレスより、指摘するストレスをとった。
そして、このときの自分は真の意味で「いい人」だったと思う。

いい人はどうでもいい人?

かつてインタビューした大先輩にあたる年代の女優さんがおっしゃった。

「MOREの読者って、感じいい人、って言われたいの?
でも、いい人はどうでもいい人でもあるのよ」

この部分を活字にすることはなかったけれど、当時の私の胸には深く刻まれた。

あの人、いい人だよね、って言われることが必ずしも悪いわけじゃない。
いい人でいようとすることが悪いわけでもない。
でも、そうすることがいつのまにか心の負担になったり、毒にも薬にもならない八方美人となるのはちょっと違う。
その塩梅はなかなかに難しい。

その匙加減のために私自身が実践していることがひとつある。
自分がしてもらってうれしかったことは、いつか自分もほかの誰かに実行できるよう、心の片隅にしっかり留めておくことだ。

私は20代で初めて仕事で徹夜したときに、黙って編集部で雑誌を読みながら待っててくれて、そのまま夜明けの焼肉に連れてってくれた先輩のことは今も忘れてない。同じことを後輩にもしましたよ〜、Zパイセン!

ともすれば人間関係もヴァーチャルに展開されがちな今、互いの本音を共有しづらくなっているのも事実。
だからこそ、どうでもいい人ではない、いい人、自分にとっても納得のいくいい人であれたらいい。

ところで、私が人から言われてうれしくなっちゃうのは

「志沢さんってどんな人?」
「志沢さん? おもしろい人だよ」です。

文/志沢直子