本を読むと自分の限られた経験を超えることもできます。とりわけ、自分とはまったく違う境遇に生きている人の書いた本を読むと、自分の経験では得られなかった知見を得ることができ、自分の人生を客観視することができるようになります。 

 何よりも読書は学びの源泉です。本を読まなければ生きていけないわけではありませんが、本を読む楽しみや喜びを知っていれば、たとえ病気のために外に一歩も出られなくなっても、電車がふいに動かなくなってしまっても、焦ったりイライラすることなく過ごすことができます。 

 長く続くコロナ禍のために、外で仕事をすることも家族以外の人と会うこともなくなりましたが、退屈とは無縁の日々を過ごしています。 
 入院している時に、主治医に、どんなに状態が悪く、たとえ一歩も外に出て行くことができなくても、せめて家にいて本を書けるぐらいには回復させてほしいといったことがありました。その悲観的な私の予想をはるかに超えてよくなりましたが、今はこの時漠然と予想していたようにあまり外に出かけることなく原稿を書いて日々を過ごしています。

読書がすべてではないが、学べることは多い 

 本だけでは学べないことはたしかにあります。 
 写真について書かれた本をどれだけ読んでも写真を撮れるようにはなりません。自分で撮るしか上達の道はありません。本を読むだけでは上達しません。一万枚くらい撮ると写真とはどんなものかが少しわかってきますが、たくさん写真を撮ればわかるというものでもありません。水泳も同じです。泳ぎ方を解説した本をどれだけ読んでも、当然のことながら泳げるようにはなりません。 

 しかし、だからといって何事も実践からしか学べないというのも本当ではありません。どんなこともある程度はマニュアル化できていないと、学ぶ効率は非常に悪いです。 
 もちろん、効率的に学ぶ必要はないというのも本当ですが、最初に最低限これだけのことを学ばなければならないということがわかっていると、今後の学びの見通しがつきます。

退職したら読もう、時間ができたら読もうと思っていると、その日がこないかもしれません。思い立ったらその時に読むのが一番です。_02

 例えば、テニスにはラグビーやサッカーとは違って複雑なルールがあるわけではありません。対戦を見ていれば何が起こっているかはわかります。自分でも少し練習すれば何度かのラリーの応酬ができるくらいには上達します。しかし、ウィンブルドンまでは行けませんし、行く必要もありませんが、それくらいテニスは奥が深いといえます。 
 スポーツや写真を撮るような技術については、本を読むことも必要であるような言い方になってしまいますが、本からこそ学べることが多いと私は考えています。 

 本ばかり読むような人はどちらかといえば変わっていて、好感を持たれないことがあります。むしろ、本を読まないことを誇りにする人もいるくらいです。文学賞を受賞した若い人が、好きな作家はいない、尊敬する作家はいないと語るのを聞いたことがあります。そのような作家がいてもいいと私は思うのですが、本はあまり読まないと公言するのを聞くと正直驚いてしまいます。私は自分が本を書く時の手本にするという意味でなくても、本を読むのが好きなので、自分でも書いてみようと思ったというような答えを勝手に期待していたのでしょう。 

 デカルトが「先生たちの監督を離れてもいい年齢に達するやいなや、私は書物による学問をまったくやめてしまった」といっています(『方法序説』)。 

 このデカルトの言葉に対して、本を読むことよりも人生には大事なことがあると考える人であれば、あるいは、そんなことは考えていなくて、本を読むことは自分にとってどうしても必要なことではないと考える人であれば、本当にその通りだと同意するかもしれません。しかし、デカルトは読書をすべてやめたといっているのではなく、読書だけが真理を発見するための唯一の、またもっとも有効な方法であると考えるのをやめたといっているのです。デカルトが本を読むのをすっかりやめたとは考えられません。 

 いつか私の講演を聴きにきた小学生が私に質問したことがありました。「本を読むのが好きなのだが、親が本を読んではいけないという、どうしたらいいか」という質問でした。多くの親は子どもがコミックばかり読む、あるいは、テレビばかり観て本を読まないことで悩みますから、その子どものように本が好きであれば、親はむしろ喜んでいいのではないかと私は思いました。 
 しかし、子どもが本が好きでも学校の勉強は一切しないで、勉強とは関係がないように見える本ばかり読んでいると、多くの親は不安になります。教科書や参考書を読むのであれば親は歓迎するのでしょうが、教科書や参考書を読むことを読書とはいえないでしょう。 
 もちろん大人も、受験勉強や資格を得る勉強のために本を読むことはありますが、それも読書といえないでしょう。