池田にあった“二つの寮”

部員数は70年代中盤まで、三学年で15人前後を推移していた。それが1974年春と79年夏の甲子園準優勝によって、池田を志望する中学生が一気に増えた。80年の新入部員は徳島県一円から集まった27人。橋川らが第一期生となった「大和寮」は77年から86年春まで使われていた。

大和寮は、後援会長・大和真二が無償で提供した民家である。丘に建つ池田高校の校舎を出て右に進むと、市街地につながる下りの坂道とは別に、脇道に逸れる平坦な道がある。民家が並ぶその細道を3分ほど歩いた先に大和寮はあった。

ある政治家から大和が譲り受けたという一軒家で、一、二階あわせて7部屋ある。各部屋に1人から3人の部員が生活していた。

大和寮とは別に、蔦が自宅裏の敷地に建てた「蔦寮」がある。蔦寮は83年春から2000年頃まで使われていた。

80年代中頃まで、一・二年生が蔦寮、三年生が大和寮で暮らしていた。同時に、当初一棟であった蔦寮は、大和寮が閉鎖される八六年春には、三棟まで増えていた。

寮費は月額2万5000円前後。高橋が筋力トレーニングを取り入れた時期から、朝と夕食は「レストハウスウエノ」が提供するようになり、毎食700円でステーキやカレーが食べられた。食費は部員の保護者が一カ月ごとにまとめて支払った。

「ウエノ」は国道一九二号線沿いの、校舎から歩いて五分ほどのところにあった。わたしが初めて池田を取材した2025年夏にはまだ営業していたが、同年11月に閉業した。

1983年に一つ目の蔦寮が完成してから、朝食は蔦の妻キミ子が用意するようになった。米、味噌汁、おかず二品。生徒の親による食材の差し入れもあったという。部員数が最も多かった時代は、50人分の世話をキミ子がしていた。

キミ子や地元レストランによる野球部への協力は、これまで美談として語られてきた。たしかに献身を感じさせる話だ。

だが一方で、ある前提が抜け落ちているように思えた。寮の建築費である。後援会長から譲り受けた大和寮と違い、蔦寮がどのようにして建てられたのか、という点について多くは語られていない。

その経緯を知っていたのが、蔦隆司だった。

文/田中仰

『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)
田中 仰
『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)
2026/7/29
2090円(税込)
272ページ
ISBN: 978-4163921297
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「カネはやめられん」
《昭和の甲子園を支配した“高校野球の神様”は、聖人か、守銭奴か?》
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甲子園優勝3回、準優勝2回。
「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で知られる徳島県立池田高校を率いた蔦文也監督は、日本で最も愛された高校野球監督だった。
しかし池田はその後甲子園から姿を消し、蔦が人前に現れることもなくなっていく。

蔦の死から25年が経った今、現地を取材すると「酒好きの豪傑監督」「金好きな欲望ジジイ」など証言者によって人物像は二転三転していく――。
親族、袂を分かった元コーチ、告発文を書いた元球児などへの取材から、池田の真実、そして“神様になった監督”の正体に迫るミステリーノンフィクション。
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《本書に登場する証言より抜粋》
「金の好きな欲望ジジイ」――当時の教え子が綴った未公開投書文
「正直言うて、指導力っちゅうのはないね」――川原良正(黄金期を支えたコーチ)
「お寺にはようけ寄付しました」――蔦隆司(次男)
「野球が大好きな、普通のおじいちゃんなんです」――江上光治(甲子園連覇時の主将)
「蔦さんを悪人にはせんといてください」――梶田茂生(86年センバツ優勝投手)
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